1月15日(日)曇りのち雨
6:00にようやく目を覚ましてコーヒーを淹れて、金曜日の日誌を書こうと思ってパソコンを準備する。フレンチプレスでコーヒーを浸している間にキンドルで本を読み始めるとそれが止まらず、コーヒーをカップに移してそのまま本を読み続けた。「断片的なものの社会学」というのを読んでいた。
最後の方の断片的な話しが色んな想像をさせてくれて面白かった。普段何気なく街で見る人たちにはそこには現れていないストーリが流れていることを想像させる。新幹線で酔っ払って、エロ本を見ている人が重度の閉所恐怖症で普段は飛行機や新幹線にも乗れず、バスや鈍行で行く人であって、精神的なパニックに耐えきれなくなった時のために袋とじを開けるためそれを携えているなんてことを想像できるだろうか。さらにその先に、妻と仲直りするために新幹線に乗っていたなんてことまで想像することができるだろうか。
人はそれぞれ色んなストーリーを生きている。目に映っているものがすべてじゃない、自分の目に映っているものはその人が今まさに生きているストーリーまで映してくれない、それどころか勝手に違うストーリーまで捏造してしまう。なんてことは良くある。だから自分は分かったように語ることなんてできないんだと戒めたい。
急いでる人、こっちを見てる人、後ろをついてくる人、それをどう解釈するかは人それぞれだけれど、当の本人が何を思ってそうしているのかなんて本当のところ分かりえない。そこにこっちが意味を付けることには意味がない。
普段は聞くことがない普通の人々の生きてきた物語はどれをとっても同じようなものがないという点で普通の人生なんてものはない。それぞれのストーリーはそれぞれが特別である。ただそれだけなんだ。比べることなんてできない。比べたところでどうだというのか。
そんな普通の人のストーリーがいくつかこの本には収められている。この本を読むことでなおいっそう人というのは分からないものだと思った。
本を読み終わって日誌を書き始めてご飯までには終わらせた。ご飯を食べたら鶏のお世話へ。さぁ長靴を履いて…と思って小屋を見たらなんだか雑然としている。いつも雑然とはしているのだけれどそれとは違う。長靴をみると犬っぽい足跡がついている。隣のあいつらかと頭にちらっと顔が横切る。しょうがない奴らだ。
冬は蛇が冬眠していないのをいいことにネズミたちがそこらじゅうを走り回っているいるらしく、隣のワンコたちはネズミの匂いを嗅ぎつけて小屋の中に入ってそこらじゅうを嗅ぎ回っている。
昨日の昼間で雨が降り続いて、午後は晴れたようでそのあと霧がずっとかかっていた。朝もまだ霧がかかっていたけれど、すこしずつ太陽が覗いてきていた。田んぼの草についた水滴が太陽の光を取り込んでキラキラと光を放っていた。
しばし霧が煙る農園を眺めていた。
鶏の世話が終わって、一昨日仕込んだ温床がどうなっているかなと思って覗いてみるとふんわりと湯気が上がっていた。落ち葉の中に手を突っ込んでみるとほんのり湿っていて暖かくなっていた。
霧が晴れてみるみる青空が広がってきた。
さて本日の作業へ、先日刈った法面の草を集めて近くの果樹の側へ持っていく。
鹿に食い荒らされてしまった大根だけれど、茎がアカとアオに分かれていた。
働く人と写真を撮る人。
午前中で大体草を移動させた。新開墾の南側の斜面の草は新開墾にある果樹へ持っていくために下から上にと何往復したのか、数えたらたいしたことはないのだろうけれど夏のあの暑さで流した汗と同じくらいの大汗を垂らしながら作業をした。
お昼ご飯を頂いて、よだれを垂らしながら昼寝をして熟睡した。準備運動を念入りにする妻。
午後は新開墾にあげた草をそれぞれの果樹の根本に運んだ。その後は新開墾の北側の法面に残っていた草を刈った。
途中で雨が降り出してきたので作業を切り上げて戻ることにした。
作業終了後、なくなっていたコーヒー豆を仕入れにBookcupへ。
何だかんだと話をしてコーヒー豆を買った。店長さんから新しい情報を教えてもらって今度はそこに行ってみよう妻と話をしながら帰ってきた。