KAZUKIの雑記 百姓日誌

福津農園 Day283 悲し、哀し、美し、愛し、偶然の雨に打たれて草刈り

福津農園 Day283 悲し、哀し、美し、愛し、偶然の雨に打たれて草刈り

2月13日(月)雨

珍しく目覚ましの音がなる前に目を覚まして、うだうだしていると目覚ましがなってようやく布団からでた。外に出ると雨がパラパラと降っていた。昨日の天気予報では一日中降り続く予定だ。

こっちに来たときよりも何故か荷物が増えた。モノというのは少なくしてやるとどこからともなくやってくる。増えた荷物を持って帰らねばならぬ。しかし、荷台を寝る場所にするためにはと思って車の上にルーフキャリをつけることにした。ってことでまずはそれを注文した。

それからプリズン・サークルの続きを読み進める。途中で妙子さんが起きてきて「次は何を読んでるの?」ということで少し説明して、話は色んな方向に脱線していく。色んなモノゴトの元凶はどこにあるのか?小さな社会である家にあるのではないか?子供の親の親の親の…さかのぼればきりがないほどの連鎖の先に自分達がいる。一番最初の社会で出会う先に生まれた人達の影響というのは計り知れない。

そんな人達もまた社会やそこに生きる人達から大きな影響を受け続けているのだから、どこが始まりだったんだろうなんて特定することは難しい。アドラーの哲学では今の行動を決めるのは過去のトラウマやなんかではないと言っていたような気がする。自分がそうしたいからその行動をとる。ある結果を受け取りたくて行動する。だから、過去は関係なく今からでも変わることは可能だと。

プリズン・サークルを読んでいると「大人(先に生まれた人達、親だったり)」というのは子供に対してかなり大きな影響を与えるということに無自覚な気がする。ふと自分の親の嫌だったところがもしかしたら自分の行動にもあらわれているときがないか、自分はそうなっていないだろうかと少し怖くなってくる。

朝ごはんを作る手が止まっていると思いながら妙子さんとの会話は止まらず。朝ごはんの時間がジリジリと後ろへ後退していった。

朝ごはんを頂いて、小雨が優しく降るなか鶏のお世話へ向かった。水を替えて緑餌を与えているとカッパを叩く雨音が強くなってきた。午前中は外での作業はなく室内で小豆の選別をした。今週の日曜日にほおじろ会がある。そこで餅つきをするらしく、選別した小豆を煮てあんこをつくる。

下を見て5mmほどの小豆を選別する姿勢はスマホを見るあの姿勢と同じくらい身体には毒だ。首、肩が死ぬ。小豆をつまむ右手が痛くなってきたら、右脳を鍛えてやろうと左手を使って作業したり、手を替え品を替えながらうずく身体を騙し騙し終わるまで作業した。

お昼ごはんを食べて、昼寝から目覚め、よだれを拭いたら午後の作業へ。

お昼に天気を確認した3時頃には雨はあがるということで、少しだけ雨が降っていたけれど山田の草刈りへ向かった。乗り込んだ軽トラに揺られて出発するとポツポツと顔に当たる雨粒が増えてきた「?」雨はあがるんじゃなかったのか…。

到着して雨が上がるのを期待しながら草刈りをしていく。作業を続けていくがいっこうに雨は上がる気配はない、むしろ強くなってきとるやんけとこころの中で呟きながら、斜面から滑り落ちないように作業を進めた。

刈払い機に詰めてきた燃料がなくなるまで作業して帰ることになった。それでも雨は降り続けていた。予報はあくまで予報なのだ。予報は外れても、この冬は雨が少ないという話だったので逆に予報が外れて良かったとも言える。天気予報でさえどういう風に意味づけをするかで良くも悪くもなる。雨が降ってるなか草刈りをしなければいけない、天気予報の嘘つき!気象予報士さんに暴言を吐くのか、いやいや雨が降ってなかったから、雨が降ってくれて有り難いと思うのか。

どんなものごとも今起こっていることに対してどういう視点から問いかけるのかで見え方、感じ方は変わってくる。今起こってることは「ただ水が空から滴り落ちてきている」だけなのだから、そこに本来は意味なんてものはない。雨が降ることによって被る何かが雨を良き友にしたり、親の仇かなにかのように恨み辛みを雨にぶつける。

意味なんてないものとして扱うこともできるし、自分にとって都合のいいように解釈することだってできる。

雨の中の作業を思い返してみるとふとそんなことを考えてしまった。夏だったら暑い中で浴びる雨はとても気持ちがいいし、されとて雨が降るとやりたかった作業ができなくなる。仕方がないから本でも読むかと休むこともできるし、何もせず雨が水たまりに弾けて飛び散る様子をぼ~っと眺めることだってできる。

こうして書いてみると何もできてないし、してないよう状況でも自分達は常に何か「する」ことを探しているし、何かしらしている。先日「どこどこで何もしない」といううたい文句でお客さんを募っているという話しを聞いた。それは「何もしないことをしている」だけだ。「何もしない」と言ったとたんにそれは「する」に変わってしまう。そうなのだ自分達は何もしないことなんてできない。何かしている時に同時に存在しているできなかった何かがあるのだろうけれど、そこにあるだけだ。他人に対して沸き起こる感情についてもみてもそうだろう。外側からは何もしてないように見える時があるけれど、それはこちら側が望む何かをしていないだけで、その人の体は一見動きがないように見えるけれど、頭の中で何かを考えているかもしれないし、何かを見ているかもしれない、次は何しようか、今日の晩ごはんには唐揚げが食べたいなって考えているかも知れない。だから誰も彼も何もしていないなんてことはなくて、何かをしている。

外のモノゴトに映し出されるのは自分の期待していることや望んでいることなんだと思う。それが叶わないとあらぬ感情が血のように流れ出てきてしまう。血すぐには止まらない。痛みをともなって流れ続け、時間が経つとようやく固まって体の中から流れ出す血を止めてくれる。それでもしばらくはその部分は疼く。怒る人はどこかで悲しんでいるのかもしれない、自分の期待や願望、これはこうでしょ普通はとそれが叶わず自分の思い通りではないことに悲しむ、この分かってもらえない悲しみを表現するためには怒りをぶつけるしかない、なんでこうしてくれないの!?自分はこんなにやってるのにあなたはこれだけ?!

本当は怒りの塊を投げつけるのではなく、悲しみを綴った手紙をそっと手渡すようにその思いを届けられたらどんなにいいんだろうと思う。昔の短歌のなかでは「悲し(かなし)」は「愛し」「美し」「哀し」と表現することがあったと若松英輔著「悲しみの秘儀」に書かれていた。悲しい気持ちは愛しい気持ちであって、理解してもらえない時は哀しいだろう。それを伝える方法は怒りという何者かを傷つけてしまう暴力ではなく歌のように美しいものであってもいいはずだ。

その前に怒らないようにするためには期待や願望を捨てること、ではなく、そうであったらいいなという期待を持つことと同時、もしかしたら偶然にもそうならないこともあるかもしれないと偶然性へと自分自身を開いておくことが大事だ。願いがかなわないのは信念がないからだといつか読んだ自己啓発書に書いてあったが、それも大事なことだとは思うけれど、信念にそぐわないことが起こった時に受け入れることができなくなってしまう危険があるのだと今は思う。自分の芯を持つことは大事なことだとは思うけれど、同時に目の前に起こる偶然の出来事にはいくつもの意味を与えられることを知っておくことは必要だろう。

とそんなことを言っても疑念がもたげてくる。偶然にも大きな災害や事故にあってしまった人達、そして自分が偶然にも同じ様なものに遭遇した時にはたしてそこまで強くいられるのかを考えてしまう。

人生には本当に思いもよらないこと偶然の出来事がこれからも無数に現れてくるだろう。今、今日、目の前に現れているものだって偶然にも自分の目の前に現れている出来事だ。

そう、今日、雨が降ったのも偶然なのだから、雨が降って濡れるてしまうことを悲しむのではなく、大地に降り注ぐ美しくも愛しい雨として受け入れよう。偶然もそんな風に受け入れられたいいな。

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Kazuki

サルサLOVER→農業研修生→木こり見習い
赤石家のカズ
2022年3月から農業の研修を開始!
2023年4月木こり見習いになる。
福津農園での農業研修を終え次なる目的地へと旅立つ
実践の記録と日々感じたことや何かを綴る日誌。

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