9月25日(月)
今日はわくわくたんけん山を探検しに来た。わけではなく、山の整備に来た。田實さんが関わり続けて10年ほどだと言う。今は廃校になった新城市立菅守小学校の裏山は散策ルートもあり、毎年整備してきている。

この森の特徴はなんといっても広葉樹がたくさん生息している。
たかのつめ

そよご

しろもじ

そのほかにも、松、コナラ、こうはな、アセボ、ヒサカキ、紅葉、もみの木、クサギなどなど、他にも名前を知らない植物がたくさんあったと思う。思わず帰ってから樹木大図鑑と葉っぱで分かる樹木ハンドブックを買ってしまった。
他にもこの時期は様々な種類のキノコが生えてくるそうだ。でも今年はどうやら天候がおかしかったからかいつもよりは少ないそうだ。途中でホウキタケというものを初めて見た。小さくてかわいいやつだった。

冬虫夏草、カメムシバージョンも、土からニョロっと先端の赤い物体が見えたらそのしたには虫が埋まっている。色んな虫から生えてくる?らしい。

しっかり目を凝らせばほんとに数えることなんて不可能なほどの生物が生きている森。スギだけヒノキだけ、〇〇だけの森よりも住める生物の幅はきっと広い。朽ちた木を養分にしてまた新しい何かの子供が成長し始めていた。

普段、杉や桧を伐る時になにげなくチョロチョロと生えている細い木(金木)やなんかを伐っているけど、たいがい植物には名前がついていて、それがどういう植物なのかを知らない、知らないまま伐っていた。最後に少しだけ暗かった場所で選木して間伐してみようということになり田實さんの話を聞きながら進めていった。

何だかそこが混んでいるなと思ったとき何を伐るのか、杉や桧なら程よい間隔になるように上空をみたいり、木自身をみたり、丸太として出したいのか、残したいのかを考えながら間伐していけばいい(間伐する要素はもっとたくさんあると思うけど)、でも広葉樹の森になったらどうだろう?
単純に広葉樹と言ってもさっき書いたみたいにものすごい種類の樹木がそこにいる。だから、広葉樹との森を間伐していくにはそこにどんな木が生えているかが分からなければ始まらないというわけだ。そこには、紅葉があって、コナラがあった、桜、コシアブラ、こうはな、クリなどがある。この森にはなんの木が多いのか、じゃ多くあるやつはまた生えてくるかもしれないから、そういう木は伐っても大丈夫だ。ある一部分を伐るためにもその森全体が見えていなければいけない、全体から部分を考え、部分から全体に思考を広げる。大きく見たいり小さく見たりすることができなければ間伐は難しい。
これは何にでも言えることなんだと思う。地球規模に視野を広げることも大事だし、自分の周囲500mの考えることも大事だ、もっと言えば自分の内面に目を向けることも大事なんだと思う。自分の身体や心を作っているは自分の周りにあるものなのだから、広げいけばつながりは果てしなく続いていく。
田實さんの森林思考は仕事をする面でも、人との関係作りにも、生きていくこと全てに繋がっていく。木と木の関係を作っていくことは人と人の関係作りに似ている。そこにはどんな人がいて、どんな関係性を築いているのか、これがこうなったらこの場所はもっと良くなるかもしれない、人が来て見てもなんだかいい場所だなと思ってそこにいたくなる。場作りは森作りに繋がる。
母樹が生きているうちは子は育たない、これも人間と一緒だ。親がいなくなって初めて子供は急激に成長していく。
ちなみに田實さんは食べられる木(コシアブラ、クリなど)を残したいから、田實さんのつくった森をみると「あ~田實らしいな」と森に人柄も現れる。踊りにも人柄が現れるように思いを込めて何かを作りあげるとそこには不思議と人が現れる。それはきっと人だけが感じられるものなのだろうけれど。
あとは三角形の法則も利用して間伐すると、なんということでしょう~あんなに暗かった森の一角が明るくなり、グランドが見えるようになりました。

というような感じで少しずつ間伐していくと明るい森になっていく。森に生きる樹木を含めた生物もしかしたら何もしなくても淘汰されて、残るものは残り、死んでいくものは死に生きるものの糧となっていくのかもしれない、人間がてを入れることでそのサイクルが加速されるだけか、加速しすぎて、自然のサイクルを追い越してしてしまって破壊に向かうのか、そこにも程よいバランスが必要なんだ。
普段はなかなか見ることができない広葉樹の森は木こりマインドを強化してくれた。