木こり日誌

新城キッコリーズ Day28 林業の奥へ、井代の森の奥へと

新城キッコリーズ Day28 林業の奥へ、井代の森の奥へと

5月9日(火)晴れ

しばらく更新できずに日にちが過ぎていってしまった。今日は13日土曜、駆け足で日誌を書いていく。手元に残っている写真とメモだけが頼りだ。本当に記憶というのは曖昧だ。簡単に引き出せたらどんなにいいだろうなと思うけれども、人間が全員そんなことできたらこの社会もまた全然違ったものになるんだろうなとふと思う。今は学校で学ぶことが頭によぎったけれど、そうなったら試験やなんかは何の意味も持たなくなってくるし、学力なんてもので競い合うこともなくなっていく。そうなったら何が自分と他の人の差異を生むのだろうか?

いやまてまて、日誌を更新するのだ自分。

ということで、盆栽ベースに集合して今日からの作業内容について話を聞く。それと林業の事業体や従事者が活用できる助成事業やなんかの話を聞いた。その助成金額の大きさやなんかはちゃんと分からないけれど、こうやって話を聞くと税金というのは色んなところに使われているんだなと改めて思う。まぁそれを活用するためには事業体や従事者が様々な条件をクリアしなければならない。林業やってたらだれでも使えるよ~なんて言ったら、やっぱりお金だけ貰っていってしまう輩はいる。だからこそ、助成条件はどんどんと増えていく。森林を手入れするため、この国の未来の森のために使われるお金なのだからその使途は明確にしておきたい。

それにしてもリスト形式にするほど条件は多いし、申請書類も多い、それがお城のお堀のように活用への一歩を阻む。大きな会社なら事務員さんがいて書類を作ってくれる。「ココとココ書いておいて~」なんて言ってくれて、そこにサインしたり、本人が必要なやることは非常に少なくて済むようにしてくれる。それが事務員さんの仕事なのだ。木を伐る人は現場に行って木を伐る、煩わしい書類の手続きに追われることはない。木を伐らないことには現場の人も、事務員も、会社も収入は得られないのだから、木を伐るのに専念してもらったほうがいい。

こうして分業が進んできた。少し思い出すのはドラッカー著「企業とは何か」だ。1946年、当時のGM(ゼネラルモーターズ)の内部での調査を元に書かれた本だった。GMがとっていた分権制のことが書かれていた。もちろんそれだけではないのだけれど、そんなことを思い出した。また今読んだら面白さも違うのかもしれない。

そんな話はさておき、分権制とは少し違うけれども分業したことで、専門性がましていって、生産性は上がったようには見えるけれども、現場のことを知らない、現場が動くための下準備をしている人たちがいることを知らない、どちらもお互いのことを知らない状態になっているのも現状だ。組織が大きくなればなるほど、それぞれの部門の間の溝が広がっていく。だからこそ、お互いに知ろうとする気持ちが大事になってくる。ここまでが自分の仕事ですから、なんて思っていたらやっぱり溝は広がるばかり、広がるだけならいいけど深まってしまったらそれこそどうにもならなくなる。

お金だけのためでもなく、会社のためだけでもなく、その先にある社会や人を思うことでしかその溝は埋められないのかもしれない「成果は会社の外にある」。専門分野に特化していくことも大事だけれど、他の分野のことが同じくらいできる必要はないけれど、知らなくていいわけじゃない。知らないことにはコミュニケーションをとることができないのだから。そこにあるのは得体の知れないものではなくて、成果に向かって一緒に働く人や組織がある。お金を得るだけでもいい、けれどそのお金はどこからもたらされるのか?会社ではない、会社の外にいる人、社会からもたらされる。

この木をどこに倒すのかを考える時、一旦、伐ることから離れるように手元の作業から目線をあげて周囲を見渡すことが必要だ。障害物、目標の場所、この木が運ばれる先、使ってくれる人、それが使われる社会を想像する。倒れた木のその先を想像する、この書類の先を想像する時僕らは何を見ているのか、そこが重要なんじゃないのかと思う。そのために様々なスキルや知識がある。スキルの上達や知識の習得は目的ではなくて、たんなる達成すべき目標で、ぼくらはそこに囚われすぎる時がある。というか分業していくことで見えづらいくなってしまったのだと思う。

話が長くなってしまった木を伐りに行かなきゃならんのだ。新城キッコリーズの伐り出した丸太(井代の森の木)を使いたいというお客さんのため木を選んで伐っていく。

沼田場までしか行ったことがなかったけれど、その先にもまだ道が続いていてその奥の方で木を伐る。先日の雨で山が水を手放しているのか、いつもは流れていないところに水が流れていた。

田實さんがこの山を買って、最初の頃につけた道が小さなスカイラインのように左右に折り返しながら上の方まで続いていた。側には昔の人たちが歩いた林道があり、昔の人がそこを通って山を超えて行き来していた。

そんな曲がりくねった道を使いながら木を出していく。まずはどの木を伐るのか、最初の一本さえ決まってしまえば、この木を倒すためにはあっちの木を伐らないといけないよね。と次々に決まっていく。けれどもそれには経験、知識が必要だ。あの木は伐らないといけないけれど、あれを伐ったら、上空が空きすぎて、雨が直接地面に打ち付けて土が流れ出してしまうかもしれない、でも、ちょうどその下に広葉樹があるからそれが守ってくれるかも知れない。

あの木は細いくてあんまり良さそうじゃないけれど、あっちを伐ったら空間が空きすぎるかもしれないから残しておこう。とか伐る前に色々とシュミレーションしていく、最後はどうやって出すのか、グラップルはどこにいて、林内作業車はどこにいて、どんな動きをするのか、どうやったら効率的にできるのか、じゃあどういう風に木を倒したらいいのか、造材したらいいのか、枝はここで払っていいのか…手の数は無数にあるけれど、それはその場にある状況をどうやって読み取るのかに掛かっている。どうやって王手をかけるか、幾通りものシュミレーションがある。

田實さんはこうやってこうやったらいいでしょ、次はこうやってと決めていく。僕は「は~」と頷くばかり。経験するしかない、自分ならと想像するしかない、その想像と現実のギャップを埋めていくしかない。

伐る前には山主さん同士の境界というものも確認しておかなければいけない。公図をみたりしても、山というのは直線でできているわけではない、凸凹していて起伏にとんでいる。現場に行ったら位置がずれているのは当たり前だ。数字も書類も大事だけれど、その虜になってしまわぬように戒める。

虜で思い出したけれど、今の林業は補助金に合わせた組織体系になっているという話。この補助金を使うためにはこのぐらい木を伐って、社員には健康保険、雇用保険、労災などなど加入させる。先に条件があって、それに合わせた組織づくり、うんおかしい。本来は森林を守って育てるということのために補助金や助成金というものが後付でついてくるものだとは思うのだけれど、使用条件を細かくしていくことで、それに合わせないことには使えないということになってしまっている。でもさっきの悪用する人もいることを考えるとそうならざるを得ないというジレンマ。林業とは何か?そこから問い直さないといけないだろうし、それをしている人たちはいる。

そんなわけで、その境界の目印に屋号がふってあることもある。先日の作手ではアセボという木が植えてあったがそういうものを境界にしたりもする。

他にも、石垣が組んであったりと堺を示すものがあるのでよく観察することが求められる。仕事はなんでもそうか、1に観察、2に観察ってくらい何をしているのか何でしているのかを良く見ることが大事だ。

僕は伐った木の枝払いをしていく。

とそんなところでお昼休憩の時間になった。

大体伐り終わったところで問題が発生した。伐った木の中が腐ってしまっていたのだ。そこでまたシュミレーションの話に戻る。伐る前だけじゃなく、実際に動き出したら再びシュミレーションは変わっていく、この木みたいに伐ってみたら中が腐っていたら。

伐る前に知ることはできなかったのか?立っている木の皮の状態を見て健康かどうか観察したり、木にへこみがあったりしたら水割れしている木かもしれない。そしたら、お客さんに使ってもらう木だから今回は伐らないで山を守るために残しておこうかとプランを変更することも考えなければいけない。

なんだかこの辺の木はあまり健康そうじゃないな、なんでだろう?と周囲を観察して原因を考える。すると、斜面の上の方でどうやら岩が崩れたりしている場所があるし、木の根元に大きな岩が転がっている。もしかしたら、成長している途中で岩が崩れてきて、この辺りの木にぶつかっている可能性があるから、他の木も同じような状態かもしれないから、伐るのやめた方がいいかもしれないなと考える。

根元が傷んでいた木の断面は黒く滲んできた。

ということで、明日また仕切り直しとなった。

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Kazuki

サルサLOVER→農業研修生→木こり見習い
赤石家のカズ
2022年3月から農業の研修を開始!
2023年4月木こり見習いになる。
福津農園での農業研修を終え次なる目的地へと旅立つ
実践の記録と日々感じたことや何かを綴る日誌。

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