木こり日誌

新城キッコリーズ Day4 カケラプレートに思いをのせて

新城キッコリーズ Day4 カケラプレートに思いをのせて

4月6日(木)雨

今朝は少しだけ早く起きることができた。身体が少しなれてきたか?とか思ったけれど、昨日はそれほど身体を動かしていないから疲れていないだけだ。たぶん。ってことで、久しぶりにコーヒー豆を挽いて、フレンチプレスでコーヒーを淹れた。一緒に起きた妻のカップにも半分いれて、僕は飲みながら本を読む。以前借りた中村とうよう著「大衆音楽の真実」という本を読み始めた。

ポピュラー音楽は、民族の日常生活の中にある喜怒哀楽の情をストレートに表現する娯楽性の強い音楽であり、かつまたダンス音楽としての実用性を備えるなど、その教授のされ方も日常生活に密着している。・・・ポピュラー音楽は作り手と聴衆が同時代に生き、同一の社会意識を共有しているのが原則であって、それはまある程度まで”売れる”ことを前提として成立しているという社会経済的側面と表裏の関係をなしている。

中村とうよう著「大衆音楽の真実」

最初の最初に出てくる文を見た時に思い出した音楽はサルサではなくキューバのルンバだった。サルサの歌も喜怒哀楽を喜怒愛楽を表現しているし、ダンス音楽でもあるけれど、キューバのサルサは輸入されたものでそこにルンバやソン、その他のキューバの音楽が掛け合わされて色んなスタイルが生まれてきたんだと思う。そして大衆化していった。と考えるとサルサも現代の大衆音楽なのかもしれないな。でもキューバにおいてはルンバやソン、ダンソン、チャングイなどがもっと前の時代の大衆音楽だと思うし、これから読んでいくと出てくるハバネラというものが源流にあると少しだけ書かれている。スペインの植民地時代にもたらされたヨーロッパの音楽と奴隷として連れてこられたアフリカンの人達の音楽が融合(ほんの中では混血)してできた音楽がキューバにはある。

文化も民族もすべて祖先を遠い遠い過去までたどれば、「混血」で出来てきたんだと思う。混じりけのないものなんてこの世のあるのだろうか?生まれたばかりの子供だって、新しく生まれた革新的なものさえも何かと何かが混ざり合ってできている。

サルサも日本語になおすとソースだ。混ざり合ってできたもの、人生こそサルサなんだ。ということで今日も盆栽センターへ向かう。

今日は雨も降っているということで前日から決まっていた作業をする。蓬莱盆栽センターの脇にある新城キッコリーズのラボにてその作業は行われる。

山から木を切って出してくると、割れてしまったり、枝虫材(カミキリムシが木の中に入り一部を食べてしまったもの)など、材として売れない丸太が出てくる。もう一つは何か贈り物的なものを生み出したいというタジーさんの思いがあり、コースターや「カケラプレート」と名付けられ、薄くスライスした丸太のカケラを少し彫り込んで作った木のプレートを手作業で作っている。

林業は基本、木を切ってそれを丸太として製材屋さんに下ろしてなんぼの世界だ。農業をやっていたら野菜を作って、大根がたくさんできたからカブがたくさんできたから、とおすそ分けすることができる。

でも、林業だと「今日は木がたくさんとれたから丸太をあげるね」なんておすそ分け…なんてことはできない、いやできなくはないけど正直もらっても困るだろう。重いし、場所は取るしで良いことはない。薪にしても、持って帰るには重いし、そもそも薪ストーブを使っていなければそれもやっぱりただのお荷物になってしまう。

おすそ分けできないことがタジーさんにとってはコンプレックスだった。製材屋さんに出したりして板にしてもらうでもなく、何処かの工房に出して製品化してもらうでもなく、自分達の手でできるものが作れたらいいなと思った。何かおすそ分けできたり、贈ることができるもはできないか?と考えてできたのがコースターやプレートなどだ。他にも丸太の椅子やバードコールと色々と考えて作り出されている。

そこにはストーリーが大事だということも言っていた。自分達があの場所で切ってきた木が、こんな理由でこうなってしまって、それを何とかしようとして生まれたのがこのコースターでありプレートであり、これらのものなんだよと、なんなら、何十年も前に誰かの手で植えられて、その当時はとたどればいくらでもストーリが紡ぎ出される。

丸太にして他の人の手に渡ってハイサヨウナラではストーリーが断ち切られる。木を切ることから贈り物として形になったものを届けることで一つのストーリーが完成する。いや、贈られたものはさらにその人達によって紡がれて終わらない物語として語り継がれていく。だから自分達でも何かを作り出したい。ジャガイモや人参なんかみたいに「今年は美味しくできたよ」なんて手渡したい。今はまず仕事を覚えることそして、始まりに関わることで自分の中でも物語が始まる気がする。何よりも覚えることから始まる。

ってことで自分はヤスリで磨く作業を担当した。シバケンさんがプレートを掘って自分は磨く、色々と試行錯誤は必要だなと思った部分もあった。それはその場で共有しながら(入ったばかりの自分が言うのもなんだか気がひけるけど)。午前中は道具の問題もありなかなか作業が進まなかった。そうこうしているうちにお昼になった。

お昼は3人で盆栽センターで昼食をとることになった。僕は塩ラーメンにみほこさんが作った「自家製チャーシュー」トッピング。※みほこさんは盆栽センターの店主さん

そのチャーシューがめちゃくちゃ美味しかった。もちろん塩ラーメンも、こっちに来て初めてヒットしたラーメンだった。

食べ終えて、林業の経営がどういう風になっているのかの話を聞かせてもらった。というより今どんなことをしていて、林業を仕事にするということはこういうことも必要なんだということが語られる。何とか事業体とか、何かの認証を得るには林業事業経営計画が必要だとか、覚えきれない、そして分厚い書類の束。。。木を切るには本当にたくさんのステップが必要だということがわかる。タジーさんはこんなところで話をしている場合ではないのだ(笑)本当にやらなきゃいけないことが山積みのようだ。

そしてそこまで考えられる真の林業家というのは少ないんだということも実感する。山のことや自然環境のことを考えながら、経営としても成り立たせる。そもそも自らの暮らしが成り立たなければ木を切ってなんていられない。僕もそうだったようにまずは自分の暮らし、食うという土台が崩れ落ちてしまったらサルサなんて踊っている場合ではないのだ。

この経験、考え方にふれることはきっと何にでも役立ってくる。経済優先でもなく、自然環境優先でもなく、ちょうどその間のいい感じのバランス感覚を持った人というのはなかなかいないと思う。どうしてもどちらかに偏りがちになる。偏り切ることはある意味ではとても楽なことなんだと思う。もう一方を悪者みたいに仕立て上げてしまえばすむのだから。

でもやっぱりこの世界は持ちつ持たれつ、両輪、いや四輪、いやいや多輪で回っているのだから。バックホーに付いているキャタピラだって左側だけ回転させてもその場でグルグルと回って前には進まない、両方を同じ分だけ回転させることで前進したり後退したり、ときには回転のバランスを変えて障害物を避けたりしながら、谷あり山ありの山道を進んでいく。人生を歩く僕らにも同じことが言えそうだ。

少し遅くなったけれど午後の作業を開始。できたものに焼印を押していく。

後半は布ヤスリから紙ヤスリに変更して木がスムーズに磨けるようになったことで作業がはかどった。(どうやら布は金属製のものを磨くのに適しているらしい)コースターとカケラプレートと半割のカケラプレートができあがった。

絶賛注文うけたまわっていますのでご贈答用にいかがでしょうか?注文は新城キッコリーズまで~。


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Kazuki

サルサLOVER→農業研修生→木こり見習い
赤石家のカズ
2022年3月から農業の研修を開始!
2023年4月木こり見習いになる。
福津農園での農業研修を終え次なる目的地へと旅立つ
実践の記録と日々感じたことや何かを綴る日誌。

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