6月1日(木)晴れ
井代の森に集合して朝のミーティングが始まる。これから小・中学校の部活動が廃止になってその役目が社会に移っていくことになるらしい。それを教える大人なの役割がますます増えてくる。どんなスキルを持っているのか、そのスキルを社会の役立たせることはできるのか、何かを持っているとこれから求められることが増えてくる。
そして、子どもたちは何かを自分から選ぶということをしていかなければならない、これがしてみたい、あれがしてみたい、どうやったらできるのか、やってみたけど何か違った、どこが違ったのか、どういうことが好きなのか、色々と自ら考えることが求められる。子供のころからそんあ風に考えることができたなら、社会に出てからそんなこと習ってないよ~とならずに済む。今までは、ああしなさい、こうしなさい、みんなと同じを求められてきた。点数を競い続けて社会にでる。社会に出ると人と違うことが求められるし、違いを認め合いながら協力することも求められる。学校の教育と真逆(一部)を行くことになる。そうなると混乱するわけで、まったくおかしなことになっている。
サルサももしかしたら社会の中のクラブ活動として求められることがあるかもしれない。
話は変わって、田實さんがチェーンソーの刃を研ぐためにバイスを刺して使っていた杉の板の話になって、その板は25cm幅で厚みが4~5cm、長さ1mくらいのものだった。さてこの板を切り出すには直径30cmくらいの木を伐らなければならない。木がそのくらいの太さになるにはなんと!70年くらいかかる。そんな杉の板がいくらで売られているだろうか?数千円だ。70年もかけて成長してきた木をお金換算するとその程度になってしまう。僕らが決めている木の値段って何なんだろうと思ってしまう。
さて昨日伐った丸太を運び出していく。薪土場行きから運ぶかホルツ行きから運ぶか、どんな順番で運び出していくのかを考えながらやっていく。
造材(伐り倒した長いままの木を4mに伐っていく)して、林内作業車に積んで運んでとやってるうちにあっという間にお昼になった。
午後も引き続き集材して林内から丸太を運び出していった。
ホルツ行きが溜まったので月曜日に積んで持っていく。今日はこれにて終わった。キッコリーズラボに戻ってチェーンソーの整備と目立てをして置いてあった新聞の記事を読んだ。
30年後には花粉の量が半減するらしい。そのために今生えているスギの伐採規模を拡大して10年後に面積2割程度減らす。そして、10年後に花粉の飛散が少ない苗木にする。植林する苗木の9割をそれにするらしい。すべては人間のためだけに。
農業の「緑の食料システム戦略」にしかり、この記事の内容しかり、あまり現実的じゃないことを考える。いや現実的じゃないことから革命は起きるのかもしれないけれど、林業従事者、農業従事者が減少するなかでどうやってこれの目標を達成していこうというのか、そう「機械化」だ。人がいなけりゃ機械にやらせときゃいいみたいな話、そのお金を工面するためのお金はどこからでてくるのだろうか?それを用意したらそれを使ってやることしか考えられなくなってしまう。
そもそもの話から考え直さなきゃいけないんじゃないのって思ってしまう。なぜか山や森などの自然は人間が所有権を持っている。でもやっぱり自然は人間のためだけにあるわけじゃないのだから、というところも考えておかなければおかしいことが起こってくる。それは人間以外にもこの地球に暮らしている生物はたくさんいるからだ。僕らもいて彼らもいて初めてこの生態系が維持されている。人間も生態系を維持するための成分の一つにすぎないのだからそこに優劣はないはず。人間がまったくいなくなったらそれはそれで他の生物にとって不都合な何かが起きるのかもしれない(と思いたい)。
エリートツリーや少花粉の苗木は成長していく中で果たしてそのままでいられるのか?数十年という長い期間に渡って近所に生えている杉の花粉の影響を受けずに育っていけるのか?数十年経ってみたら普通の杉と変わりない花粉の飛散量だったなんてオチが待っているかも知れない。その答えは数十年後にしか分からない、今政策を進めている彼らは知るよしもないのだ。
ほんとに穏やかに過ごせる世の中というのは人類はまだまだ手にし得ないでいる。それはいつか来るのか、その過程にいるのか、行ったり来たりしながらその中間に収まっていくことを考えたい。