※2月のサルサソースを転載
なんだかんだ忙しくて、今月のサルサソースを書けずにいるうちに2月22日の「森の時間、町の時間。」の講演が終わってしまった。という言い訳がましいとこから始めてみる。
無事に講演は終わって、明けて翌日の朝(まさに今!)にぼんやりと考えていて頭に浮かんできたことをつらつらと書きなぐってみた。
朝6:30に起きて、コーヒーを淹れるためのお湯を沸かしながら隣のコンロでお味噌汁を作って、もうそろそろ7:00かなんて思っていたところで「今日は雨降りなので仕事きないね。」という連絡があってお休みになった。
ぼんやりした頭で「時間ってなんだろう?」と昨日の夜のことが思いうかぶ。「時間」というものは過去の偉大な哲学者達も考えてきたことだ。
そもそも「時間」という言葉をつくったのは人なのであって「この世界」にはそういう概念はないのだろう。木が生きてきたことを思う時、そこに感じるものが「時間」と表されるのか。
何時に起きて、何時に仕事に行って、何時にここ集合ね。何時までにこれを終わらせないと。
となぜだか分からないけれどぼくらは「時間」というもの、言葉に縛られている。人と足並みをそろえるためにはとても便利な道具だ。家族との生活、学校や職場、様々な組織の一員として行動していくため。
現代を生きる僕らにとって集団で生きていくために必要不可欠なもののように思える。
だけれど、何時何分何秒と表すようになったのはイギリスでおこった産業革命以来、ここ200年ほどの出来事。月の満ち欠けや、太陽の動きは1日の時を計るのに使われていただろうし、この虫が鳴いたらそろそろ肌寒くなってくる季節だなとか、カラスが鳴いたら帰りましょう。ではないけれど、他の生物の時間で生きていたんだなと思う。
そう考えると実は縛られる時間が変わっただけで時間というものに縛られているのはかわらない。なんだか面白い。
時々、融通のきかないガチガチにかためられた(時々、電池が切れたり、太陽が陰ったり、巻き忘れたりしてズレることもあるけれど)
「時計の時間」というものに嫌気がさしてしまうことがあるだろうし、そんなものに人が狂わされてしまうことがある。そんな時に拠り所になるのが「森の時間」であり「生物の時間」であり「自然の時間」というちょっとアバウトに感じる時間なのだと思う。
カラスももしかしたら帰る時間を忘れるほど楽しいことがあって巣に帰るこが遅れる。なんてことがあるかもしれない。(たぶん、死につながるから暗くなってきたらカーカーと言いながら帰るだろうけど)
もしかしたら太陽も月も地球も何かの影響をうけて今のように動かなくなるかもしれないが今のところ知覚できるほどには変わっていない。
「時計の時間」と「自然の時間」をこうして改めてみてみると「自然の時間」の案外正確に時を刻んでいるんじゃないのかも思えてくる。
暑かったり寒かったり、湿っていたり、乾燥していたり、他にもたくさんの条件があると思うけれど、自分の生きている、生きていく環境に敏感でないとすぐに死んでしまう。
時計以外の時間で生きるってことは他の生物へのリスペクトもなければいけないだ。たぶん。
色んなものは繋がっていてるのだから、どんなところから考えてもそれぞれの事に繋がっていく。
時間を考えることで生物多様性のことや働き方、生き方、人との在り方が見えてくる。その逆もありえる。
今考えていることと無関係に思えるようなことでもやっぱり繋がっているのだ。
ある時間の西陽に美しさを感じるのは、あと少しで今日が終わってしまうという一瞬の儚さがそこにあるからかもしれない。
一瞬の輝きに包まれるその時「森の時間」を「自然の時間」をそこに感じでいる。
「町の時間」が嫌になったら、時々は「森の時間」を実際に感じることをオススメする。そんな時はどうぞ新城キッコリーズの森、イシロノモリへ。