KAZUKIの雑記

切断と接続の淡いにうかびあがるもの

切断と接続の淡いにうかびあがるもの

4月のサルサソースは結局書けずにまた気づけば5月も末も末。今何だか書けそう、みたいな気持ちになったのでパソコンに向かって書き出したところだ。

何で書けなかったんだろう?なんて考えるのは書けなかった言い訳をつくることにしかならないんだろなと思いつつもの、始まってしまえば、書いてしまえば、自ずと何かに引っ張られて言葉は出てくるのだと思う。

先月だって日々何かを感じながらその日を過ごしてきているはずだし、インプットはされているのだから、自分の中に取り込まれた色々なものは混ざり合って何かしら得たいのしれないアウトプットになりえるものになっているんじゃないのかと頭の中にイメージだけはある。

インプットは何か蓄積してしまうようなイメージがあるけれど、そんなんだったら大昔から積み上がってきた堆積層のようにザクザクと掘り進めるか何かしないとインプットされたものはこの先出てくる可能性は薄い。経験を積むとはいうし、基礎があって、その次にできることが増えてくる。

しかし、それは本当にそうなのだろうか?

何かを書いたりすることで情報を残したり、書くことでまたインプットしようとしたりする。それは経験とは違って美味しいカクテルを作るような感じだろうか、何かと何かが混ざり合ってまた新しい味が生まれて、そのまた反対に混ざり合わないことで違う美しさが生まれたりする。そう考えると情報ってのは何だか液体のような気体のような、何かと混ざり合うことできるし、そうならないこともできるんじゃないかと思えてきた。

と書きながら、中学生なみの理科の情報がポッと出てきて、もっともっと細かいレベルで見ていったら実は混ざり合ってなくない?ただ手を取り合って、ある時間、一緒にそこにいるだけなんじゃないか。どこまでいっても混ざりあってないし、はたから見たら混ざり合ってるようにも見える。

最近読んだ本の中でも語られていたけれど、ぼくらは良い/悪い、自然/都市、能動/受動など、2項対立の概念で物事を考えてしまう。それのどちらが良いか悪いかの話になってぶつかりあうことがしばしばある。けれども、どちらかが良いか悪いかなんて時代やその時の様々な条件が違えば良いとも悪いとも言えなくなってくる。

今頭をよぎったものは、ぼくには子供がいない、子供がいることで幸せを感じることもあるだろうし、子供がいることで生まれる苦しみもあると思う。子供を育てたことがないんだから、そんなこと知らないでしょと言われてしまえば終わってしまう話なのだけれど、子供をさずかるという出来事から続いていく物語の中にも良いと思われるもの、悪いと思われるものが混ざり合っている。良いと思うか悪いと思うかはその時代の風潮と呼ばれるものなのか文化と呼ばれるものなのか、そのへんよくわかってないけれど、様々なものに影響されて、そうなんだと思うようになってはいるのだと思う。

良いとか悪いで区切ることができないモヤモヤっとしたものがこの世界を作っている。

千葉雅也が著書で語っているデリダのビジョンはなんだかしっくりくる。

”一切の泡立ちのない、透明で安定したものとして自己や世界を捉えるのではなく、炭酸で、泡立ち、ノイジーで、しかしある種の音楽的な魅力も持っているような、ざわめく世界として世界を捉えるのがデリダのビジョンであると言えると思います。

千葉雅也著「現代思想入門」

良いことも悪いこともこの世界にはなくて、自分たち自身がそう決めつけているだけで、サイダーの泡のようにただただ生まれては消えてを繰り返しているだけなんだ。

これが良いことなんだ!と言い続け進めた結果の戦争であったり、これは悪いことなんだから正さなければならないと、極端に偏りすぎると悲惨な結果を招くことが多いのかもしれない、招かなくても何か遺恨を残すことになる。だとしたら、どっちつかずの優柔不断がいいのか?ぼくは何も決めない、何が正しいかなんて分からないと言うのがいいのだろうか?

泡立つノイジーな世界の中はこっちが正解、あっちは不正解というものはなくて、そのあいだのグレーなゾーンを手探りで行ったり来たりするのが良い気がしている。ここ2~3年のテーマみたいなものが自分にはあってそれが「バランス」だなと感じている。

人と人とが繋がっていけば何でも上手くいくのかと思えばそうでもないだろうし、一人で生きていくほうが楽かと思えばまたそうではない、一人の時間があるからこそそこで生まれるものもあって、他者を理解することにも繋がっていく。他者とつながることで社会の中で生きる「自分」というものが分かったり、そこ以外での「自分」というものにも気づいていく。

この一つの体しかないものの中には良くも悪くも振れるものがいて、人とつながることも一人でいることも大事だと思うものがいる。まぁそんな考え方も本やなんかに影響されてるんだろうなと思いながらも、その考え方いいな~と思っているから採用しているんだけどね。

またまた、同じ本の中で語られていることを一つ

”リゾームとは、本章の冒頭でも言ったように、多方向に広がっていく中心のない関係性のことです。そして重要なのは、リゾームはあちこちに広がっていくと同時に、あちこちで途切れることでもある、と言われていることです。それを「非意味的切断」と言います。つまりすべてがつながり合うと同時に、すべてが無関係でもありうる、と。

千葉雅也著「現代思想入門」

人生のいろんな出来事がつながっているようにも見えるし、いやいや偶然こうなっただけで、それ以上の意味はないでしょとも思える。見ようによってはどうとでも取れる。世界は見方一つで変わってしまう。変えられるということの側面を上手く活かせるなら身の回りに起こることのすべてを良いと捉えることもできるから、いつも良いことが起きているような錯覚で日々を過ごすこともできる。

偶然起こってしまったことだと思えるなら、深く悩みんで苦しむこともない。

人と暮らしていく以上、もちろんどうしたら上手くいったんだろうと考えることが必要なときもある。

本当にどうしようもなくなってしまったのだとしたら、色んな出来事なんて偶然おきてしまったことなんだと思えることも必要なんだと思う。

どちらか一方に振れてしまうことはとても楽なことなんだと思う。その間でうろちょろするのにはそれなりにエネルギーを出し続けなければならない、少しずつ少しずつ歩き続けるということに似ている。

生物のカラダはいずれ朽ちて、あとかたもなくなってまた他の生物の糧となる。最終的には何かのためにはなるし、だれでもそこへ向かって生きている。だとしたら、どんな出来事も楽しいものに変換できる力を生かしたい。生きている間に何事かをなさなければならないわけでもないし、なしたいと思うならそうするのがいい。成したいと思うなら人と人との間を動き続けるしかないのだからそこで学び続けなければならないのだと思う。

って何書きたかったのか忘れてしまったけど、書き始めた時に思ってもいなかったところへは来てる感じ。すべては変化し続けている途中なのだ。

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Kazuki

サルサLOVER→農業研修生→木こり見習い
赤石家のカズ
2022年3月から農業の研修を開始!
2023年4月木こり見習いになる。
福津農園での農業研修を終え次なる目的地へと旅立つ
実践の記録と日々感じたことや何かを綴る日誌。

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