2月10日(土)雨
柿の剪定をしているとなぜか歌を口ずさみたくなる。というか口ずさんでいて歌詞もうろ覚えのまま「ふ~んふふん♪」なんて聞いたことのあるメロディーが音に変換されて曖昧なまま垂れ流される。だれかに聞かれるわけでもなく、まわりには鳥や虫や植物ぐらいしかいない。よっぽど鳥のさえずりの方が美しいはずなのだ。
最近の朝ドラの主題歌に影響されたり、動画編集をしている時に聞いていた「東京ブギウギ」にまるっきり頭が乗っ取られたんじゃないかと思うくらいずっと「とおきょう ブギウギ リズム ウキウキ♪」のサビの部分がリピートされる。そのあとの歌詞は「ふふふ~ん(?)」なのだけれど、あの現象は何なんだろう?と思った。きっと名前があるんだろうなと思いつつ、人は歌を口ずさみたくなるし、踊りたくなる。踊らなくとも嬉しくなったらわけも分からず小躍りしたくなる時がある。
歌が思わず口から漏れ出すのはそういうことと似ていることなんだろうか?それとも、何か耐え難いことあり身体がそれを嫌って、今の状況に喜びを感じたくて辛さを喜びに変換する作業が歌となって小躍りになって表現されるのだろうか?
なぜかケツメイシの「夏の思い出」が突然口から飛び出してきたりして、いくら山にいるからって「やっぱ海~」と身体が海を求めているわけでもないだろうに。柿の木の剪定作業がもしかしたらあるリズムを奏でているのかもしれない。ハサミでパチン!パチン!と枝を切る音とリズム、ノコギリで太い枝を切る時に立てるギコギコという音とノコギリの反復運動、木の枝に足と手を掛け登っていく時の筋肉への刺激と枝のきしむ音とそれに身体が刺激されて、深いところに眠っていた身体の記憶とともに「夏の思い出」の再生ボタンが押される。
日々色んなものの刺激を受けている。自分の外部からそして自分の内部から発せられる音、言葉、イメージ、外からの刺激に反応する内部、内部からの刺激に反応して外部の刺激を取捨選択して取り込む。
なにかに集中している時はあふれる情報を遮断している状態に近い「どの枝を切ろうか、あれにしたほうがいいのか、1年後はここからこんな感じに生えて2年後はこうなるかもしれない、横から伸びてくるこいつがこうなって」と、柿の木のからの刺激にたいして内側では柿の木の未来が思い描かれる。描かれている時は内側に籠もっているし、そこから這い出ることで枝は切られる。その時、そこには一瞬だけれど柿の木と自分との関係だけがある。何ものにも邪魔されない2人だけの関係、歌を歌う踊りを踊るのはモノゴトとそんな関係を気づくためか。他の雑念を取り払い、自分は君との時間を過ごしたいんだ。いやそれ自体が雑念なのだけれど、よりそこに集中していくためには必要なことなんじゃないかと思う。
はい、そんなわけで早朝にそんなことを考えていたわけでもなく、動画編集の作業をしようと早起きを試みた金曜の朝ではあったが起きられず、作業もできなかった。いいアイデアも思い浮かばないので一旦そのことは忘れて朝市へ向かう。
雨の日は道路が混む。普段は歩いたり自転車を使って移動する人たちも誰かの車に乗り込み、どこかへと送られていく。だから走る車も数も増えるのかもしれない。雨降りの朝、色んな思いを乗せて走る車、人の思いを乗せて走る車、どこにでも人の思いが詰まっている。政満さんは野菜を載せて走る。政満さんの思いと消費者の思いが引き合うように朝市へと向かう。
よく見れば福津農園の野菜たちはこれでもか!というくらに野菜のかたちが違うそれぞれに個性的な形をしていてお客さんも楽しいんじゃないかと思う。「今日の君はまた面白い形してるね~」と毎週の出会いも楽しくなりそうだ。
均一に作れること、均一な形、そういうものに自分達は慣れきっている。でも人も野菜も均一じゃないから面白い。偶然に誕生したもの同士が偶然の出会いに恵まれる。均一なものは押し込まれ一見整っているように見えるけれど、そこからは漏れ出してしまうものもある。均一を求める気持ちというのは自分の中にもあって、かなり根深いもの何だと思う。こんでねばまいね!(訳:こうでなければならない)というのもある種、均一化の現れでもあるんじゃないかと思う。その時代時代のこんでねばまいねがあることに気づくこと、自分がそう思った時こんでねば病に冒されそうになっているというサインだ。
と野菜たちからそんなメッセージを受け取ったかは定かではないけれど、なぜだかそんなことを思った。フキノトウに紅菜苔はお客さんと出会い、僕らと分かれていった。朝市、そこは出会いと別れの場でもあるのか。
あるお客さんは「先週買った梅が暖かい部屋の中に置いておいたらあっという間に花が咲いて」と今週は蕾がしっかり閉じたものを買っていかれた。剪定のために切られた枝も違う場所で花を咲かす。子孫を残すことはできないけれど人の心を揺り動かす。って梅はけっして人を喜ばそうなんて思っていない。蕾が花開く、そこに美しさを感じているし、生きていることをなんとはなしに感じているのだろう。
花が咲き終わったら、細かく切って庭の木々や植物の側においてあげることで餌となり住処となって他の生物にまで喜びを届ける。人間の身体も色んな生物から頂いたもので出来上がっていて維持されているのだから、最後は梅の枝のように他の生物のために土に返ってもいいと思うんだけだな。自分は良いと思うけど、他の人が悲しむというのも時代時代の観念だと思う。最終的には燃やされ気体と骨になるのがいいのか、他の生物の糧となって骨になるのがいいのか、すべてに人にとっての「死と生」の概念は違ってもいい。地球に生きる生命の一つとして考えるなら、自分達が他の生物を糧にしているように、自分達も最後は他の生物の糧になることが必然的なように思う。
そうか地球は大きな大きなお墓と見立てることもできる。そう考えるなら僕らは大きな共同墓地の上で生きている。
共同墓地幻想についてはまた考えることにして、美味しもの処を巡る旅に出かけなければ残りわずかの期間であと数件巡る計画のなかに組み込まれた「玄米と麺 ワタナベ」へ。
今日は味噌ラーメン、妻はバタートッピング。
その後は、最後の動画編集。夕方までみっちり作業して福津農園の帰路につく。