1月19日(金)~1月22日(月)
金曜日から弘前入りして、今回から新しいレッスン(?)を開催して、初めましての方々にサルサをお伝えした。
ほとんどどんなことでも、これが〇〇です!なんて言うことができないように「サルサ」も一括りにして、担ぎかっこで閉じることができない。これが自分のスタイルなんだと思っているようなものでも、様々な人の影響を受けて今のかたちになっている。
だからこそ、これはいいのだろうか?と迷う。バカボンのパパよろしく「これでいいのだ」と思えるのはどこかでぼくの踊りを評価してくれる人がいるからなのかもしれない。
かと言って「おめカッコいいな」と言ってもらっても素直にそうなんだ!と喜べないところもある。
そんな言葉に支えられながら、これでいいのだと思いつつも、これでいいのか?と漠然として見えずらいカッコいいと思う未来の自分の踊りの間をずって揺れ動いている。そうして、少しずつ変化していく。
今は揺れ動く自分のその感情が普通なんだと思えるようになった。誰でも何らかの出来事の間で生じる感情の間を揺れ動いているのだということも分かってきた。
それでいいのだ。
むしろそれがいいのかもしれない。
自分の中にはあまり記憶として蓄積していなかったたくさんの振り付けや思い出も、ぼくの周りの人達の中には確実に蓄積していて、ぼくが誰かのカラダの一部になって生き続けているんだと思うとふしぎな気持ちになる。
もしかしたら自分自身がしてきたことを忘れることを恐れないのは、誰かのなかにそうして残ってくれるのかもしれないという根拠のない自信をもっているからなのかもしれない。
金曜のフライトの空き時間から読み始めて一気に読んでしまったカズオ•イシグロ著「クララとお日さま」
それを読んだからこんなことを考えてしまったのか。
AF(人工親友)クララが病弱なジョジーのすべてのコピーをある人物に頼まれるのだけれど、最後の最後に話した言葉が印象的だった。
“カパルディさんは、継続できないような特別なものはジョジーの中にないと考えていました。でも、カパルディさんは探す場所を間違ったのだと思います。特別な何かはあります。ただ、それはジョジーの中ではなく、ジョジーを愛する人々の中にありました。”
人を完全にコピーはできるかもしれないけれど、その人をその人たらしめるものは、自分以外の中にしかないのかもしれない。人と人の関係の間に、それぞれの個と呼ばれるものが存在していて、それを見つめる時、私自身を知る。
こうしてら少しずつぼくはぼくを知っていくし、変化し続けて、分からなくなっていくのだ(笑)
でも、これでいいのだ。
今回も参加して頂いたたくさんの人達にたくさんのありがとうを。