7月19日(水)
上手く行っても良い経験、上手くいかなくても良い経験
自分にはその時上手くやれる器量がなかっただけ。それを知れただけでもいいんじゃないのか?
たしかにだれかに迷惑をかけることになるけれども、だれかに迷惑をかけることなく自分のことを知ることなんてできるのだろうか?自分のことを知るとき、時には人に迷惑をかけることがある。でもそうやって、相手を知り、自分を知っていく。
自分のことをおおよそ知ることができたら、ここまではできるかも知れない、この境界線を超えたらできないかもしれないけれど、今はチャレンジしてみようかな?と思ったり、自分のことを知っておかなければそりゃ痛い目をみる。痛い目すらこれは経験とポジティブにとらえて、また再出発することだってきる。
自分の人生なんだから、それだけで終わりじゃないだろうに。だれかに迷惑をかけて再出発することくらい許される世の中だと思えたらいいのに。というか許すも許さないも自分しだいじゃないのだろうか。
だれも許さなくても、自分だけは許してやればいいし、そもそも何を許すのか…。
僕らは何にそんなに縛られているんだろうか?法律やら、お金やら、言葉やら、言ってみれば幻想のようなものを色んな人が共有しているにすぎないのだから、縛られすぎじゃないのか?と思う。時々みんなが見ている同じ幻想をみないと仲間はずれになってしまうけれども、新しい幻想を生きてもいいということでもあるだろう。
誰にでもいい顔をすると疲れてしまう。いい顔は見せてもいいだろうけれども、自分の意志は表明しておいた方がいい。いい顔自体は見せるのにこしたことはない。人間同士のコミュニケーションだもの気持ちがいいほうがいい。いい顔をしたいがために意志を表明することを避け続けると自分自身を苦しめてしまう。すべてを受け入れられだけの器を持ち合わせているなら、あなたのために、そちらの方のために、あの方のためにと自分の身を差し出して彼らの思いを受け入れられるのだろう。それも自分の器がどの程度の大きさなのか、何でできているのか、そういうものを受け取るための器なのか、色々と知っておかなければいけない。
苦しいのなら、誰のことをも考えずに自分のことだけ考えて生きればいいのにそうもいかないところが良さでもある。その良さが時々邪魔をして自分を優先させてくれない。自分の良さというのは諸刃の剣だ。そう考えると良いように見えるものも悪くなり得るだろうし、その逆もまたしかり、そのバランスを取り続けることがやはり大事になる。
丸太の上を歩くように、けっして大きく体を揺らしてバランスをとるのではなく、小さく小さく、いつも微妙に動き続けながら小さな振り幅のなかでバランスし続ける。体が傾きバランスを崩しかけていることを察知して反対側へと動くように、心のバランスをとるにはどちらに感情が振れているのかを観察する自分をつねにそばに置いておく、そうすることで感情に振り回されずにすむ。何か良からぬことを考えているぞこやつ、ポジティブすぎると危ないかもよ、とかツッコミを入れてくれる自分というのだろうか、それでもどっちかに振り切るときというのもある。
生と死を分けるような時とかはそうかもしれない、これはマジで死ぬかもしれないからぜったいやっちゃだめだ!とか、ポジティブに振り切る時は、今ここでこれを選ばなきゃ一生後悔するとかいうときだろうか。
まぁその選択もけっきょくはどんな風にこの人生を歩んでいきたいのかを考えていないといざ選択の場面に出くわした時にどちらも選べなくなってしまうのかもしれない。
つれづれなることはないけれど、そこはかとなく書いてしまった。日誌をかけよ先にと自分にツッコミをいれたい。
つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
吉田兼好「徒然草」