KAZUKIの雑記 百姓日誌

福津農園 Day268 柿の木の剪定、収穫

福津農園 Day268 柿の木の剪定、収穫

1月26日(木)晴れ

朝5:00に起きようとアラームをセットしていたのに気づけば6:30、布団から出ている顔に寒さを感じる。今朝も寒いと予報で言っていたではないか、昨日も部屋の温度は1℃だった。青森県民の多くはそんな寒い部屋で目を覚ますことはない。寝る前には暖房器具に「明日は私達よりも早く起きてお部屋を温めておいてね。」と早朝から労働を強いるかのようにピッとタイマーセットしておくはずだ。

もちろん薪ストーブにはタイマーなんてものは付いていない、いやどこかの誰かが自動で薪ストーブに火を付けてくれるマジカルなストーブをすでに発明してくれいるかもしれない。そんなんやったら電気を使わない薪ストーブの意味がどこにあるのか分からなくなるが…まぁそうなったら人の手で焼べるまでの話だ。でもアナログ的なオートマティック装置も作れそうだ。

にしても、何を原動力にして動くんだろう?と妄想は膨らんでいくのでこの辺にしておくとして、寒い部屋からの逃亡をはかり居間に向かいストーブに火種が残っていたら薪を焼べて暖をとれる、残っていてくれたらラッキー、という謎ルールが自分の中で設定されてる。火種がないならマッチ一本火種の元にして乾いた杉の葉にでも引火させて竹、細い薪、太い薪と徐々に燃えやすいものをいれていけばいいだけだ。

ただ、薪が燃え尽きてしまっていたら我慢するという謎ルール2もある。ストーブがついていなくても12℃くらいはあるから着込んで我慢できないこともない。日中ストーブをつけることはなく、どんなに寒くても居間の温度は10℃を下回ることはない。(昨日はさすがに外の気温が一日中に0℃付近を行ったり来たりしていたのでストーブを付けていたけれど。)

それは夜、火で温められたストーブ自身の熱で空気温められ、それがお家の壁や床、家を構成する者たちに吸収されて少しずつ放出しているからだろう。火が残っていなければその温もりを抱きしめて本を読めばいいし、託された仕事をすればいいのだ。と冷えていく指先はあいかわらず寒さを物語ってくるけれど我慢できないことはない。

朝ごはんの前の修行を終えて、温かい味噌汁とご飯を頂く、茶碗を持つ手に幸せが訪れる。そうだこれが幸せなんだ。と独り(いや6人で一緒に食べているのだけれど)朝ごはんを食べながら小さな幸せに気づく。

どうしても苦しさを味わったり、色んなものが不足することでしか、幸せやそれがある有り難みというやつには気づきにくい。これは自分だけか?それに「気づく」ということはいつもそこにあるということではないか、そういうもの達は「ここにあるんだよ。気づいて。私達はあなたのすぐそばにいるんだよ」なんて声をかけてきてくれない。いやかけ続けられているのに自分達が気づけないだけなのかもしれない。

自分がこうして何かを書いたり、考えたり、ここに居ることも含めて、すべては「偶然」と「偶然」の積み重ねが生み出したもの。振り返ればそこにはいくらでも必然性を見ることができる。その時を生きている者たちはどんなに必然的にモノゴトに取り組んでいたとしてもすべてをコントロールすることはできない。周りの人達の必然性や偶然性に偶然的に影響を受けてしまうことは避けられないはずだ。きちきちと決められすぎている世の中で生きているからこそ、そこから逸脱することが怖くなるし、そう感じてしまう。なぜ相手はこう動いてくれないのか、なんでそうなるんだ、なんですぐに見てくれないんだ、なんで私のことをを考えてくれないんだ。どんどんと自分の期待に押しつぶされていく。

それでも期待することは必要なことなんだと思う。それを考えただけでワクワクするようなこともあるし、期待するからこそ頑張れるみたいなところもある。その期待の仕方が問題なのだ。

「訪れを待つ」というのは偶然に身を開いておくということである。あいだに何が起こるかわからないからそれをも含めて、長い眼で見る、そして自然に機が熟すのを待つ、要は、時が満ちるのを待つということである。

鷲田清一著「わかりやすいはわかりにくい?-臨床哲学講座」

そう考えると本来は農業も待つこと、待たされることなんだと思う。今は待つことなく食べたいものを一年中作ることができるので少しそこから離れていってしまっている。そこにも「待つこと」ができなくなっていることが現れているし、自然という偶然に身を開くということからは遠ざかっているように思う。色んなところに「待てない病」が蔓延していてそれにすら気づけていない。

野菜だと数ヶ月~1年、果樹だと数年、木は数十年単位で成長を「待つ」ことが普通だ。しかも「大きくなってくれたらいいな」「たくさんなってくれたらいいな」たくさんの期待がそこにはある。けれどもそこには自然という偶然に開かれた身体が必要だ。でなければ「ああなったらどうしよう、あれが起こったらどうしよう」と起こることによって身が張り裂けてしまう。そんなことを言ってられる自分はまだ何も始めていないからなんだとは思っている。実際に自分がそこに放り出されたらどんなことを思いながらやっていくのかは見ものだ。

コントロールしすぎることは数十年に一度なんていう災害や健康被害やもろもろの不安を引き起こすことの原因の一つにはなっているんだと思う。最近SUBURI STUDIOでも話したエビデンスと効率性のこともそこに絡んでくる話しなんだと思う。

何かをしすぎることはどこかに弊害を生む。そしたら逆に何かをしなさすぎたら何が起こるのか?考えてみてもよさそうだ。

おいおいご飯の時間から脱線しすぎではないか、作業に戻らなければ。鶏のお世話のために今日も寒い外に向かう。

今日も鶏の達の飲水が凍っていて、いつから飲めていなかったのかは分からないけれど水を替えてあげると皆いっせいに集まってきて勢いよく飲み始めた。よっぽど喉が乾いていたらしい。雪だと地面に水たまりもできないし、地面の水を飲めないからな。凍っちゃってるしね。

緑餌をとって戻ってくる途中に今日収穫する予定のカブを見てみるとと色が変わっていて凍っているようだ。午後には溶けるかな、そして溶けたら食べれるのか?

鶏の世話が終わったら柿の木の剪定を続けていく。近くのタラの木にカミキリムシ?と思われるものがくっついていて死んでしまったのか動きがない。

それは置いておいて作業を進めていった。今日は昨日ほど寒さは厳しくなくお日様も出ていて僕らを温めてくれている。これも幸せだ。昨日一人で味わった地獄のお陰だ。自分だけは天国にいるのだという思いにひたりながらもくもくと作業をしていく。

どうやら妻も幸せを感じているらしい、手と足を広げポーズまで取って幸せを表現してくれた。日焼け防止の完全装備からはその表情を伺えないが。

そばの銀杏の木が目が入る。葉っぱも全部落ちて、記憶の中の黄色い銀杏の木、周りの木とのコントラストも相まってこんなにも白い木だったかと心を打たれる。太陽に照らされていっそう白く輝く銀杏の木はまた緑の葉っぱをつけて、実をつけて、葉っぱを落とし自らの養分として生きていくんだろうなと思う。

作業していると身体もちょうどよく温まった午前中の作業だった。お昼ごはんを頂いて、午後の作業は明日の朝市のために野菜を収穫していく。凍ってしまって大丈夫かな?と思っていたカブもどうやら元通りに戻っていた。生きてさえいれば野菜たちも自らを温められるのか?それともお日様に温められて復活したのか?芯まで凍りつかないように何かしら抵抗していたのかもしれない。夕飯の時に食べてみたけれどなんの問題もなかった。

収穫を終えて自分は干し芋をパック詰めする。妻と他の研修生は野菜やなんかを計って袋詰めした。結局、自分は干し芋にかかりきりになってその作業だけで終えてしまった。干し芋の黒くなっている部分をとる作業は意外と手間がかかる。それを残しておくと変な苦味が口のなかに広がってせっかくの甘みを台無しにしてしまう。ということでちまちまと削り取っていく作業には時間がかかる。

袋詰している部屋は床がコンクリで、動かずずっと座っていたもんだから足元から身体まで冷えてしまった。凍りつくようだ。私はカブか。ならば居間のストーブで体を温めて解凍しなかれば。細胞一つ一つに熱が染み渡るようにゆっくりと生き返っていく身体、これもまた幸せ。今日はたくさんの幸せを見つけた。

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Kazuki

サルサLOVER→農業研修生→木こり見習い
赤石家のカズ
2022年3月から農業の研修を開始!
2023年4月木こり見習いになる。
福津農園での農業研修を終え次なる目的地へと旅立つ
実践の記録と日々感じたことや何かを綴る日誌。

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