3月5日(月)晴れのち雨
今日は2日分の日誌を書かなきゃと思って5時には起きた。Hさんが焙煎したコーヒー豆ももう少しでなくなるな~と思いながらモーニングコーヒーを淹れてパソコンに向かう。なんだか分からないけど長くなる。不思議なもので書き始めると言葉というのは次から次へと芋づる式に溢れてくる。人が怒ってる時ももしかしたらそんな感じに近いのかもしれない。
頭の中では色んな言葉が渦巻いていて、言葉を引っ張り出すことで次々とそれに似たような言葉を引っ張り上げてくる。
イシイシンジという人が『書こうとしない「かく」教室』の中でこのようなことを言っていた。海の中に釣り針を垂らすように、意識の中に言葉の釣り針を垂らす。するとその言葉に色んなものが食いついてくる。本当にそうなんだと思う。意識の海のそこには過去の記憶がイメージと言葉となって沈殿している。そこに言葉の針をそーっと下ろすことで不意に思い出される記憶がイメージと言葉になって浮かび上がってくる。
自分は楽しかった記憶や悲しかった記憶というのが曖昧だ。なぜか分からないけれどあまり思い出せない。普段は目の前にあることに忙殺されたり、最近起こった出来事やそれについて「それってこうなんじゃないのか?いやもしかしたらこうかも」とか、先のことを考えたりする癖があるからなのか?過去の記憶はきっとどこかに沈殿しているんだろうなと少しの期待を持つことしかできない。残っていたら良いなくらいに。誰かと作った楽しかった記憶や悲しかった記憶ならほかの誰かが覚えてくれているかもしれないし「あ~そうだったけね」とそんなことをしてたんだとあとから新鮮な気持ちで受け取れる。それって記憶障害で危ないかもと時々思うこともある。だからこそオオカミ少年にならないよう口を慎むのである。
それに意外と他人の方が覚えてくれているもので、それは外付けの記憶媒体ようだなと思った。人の記憶容量というのはどの程度のものかわからないけれど、人間は他人の脳まで使うことができる。これは完全にNAS(Network Attached Storage)だ。自分の記憶がだめになったら、あの人の記憶から自分の記憶を引っ張り出す。あの人のがだめになったら、また違う人の記憶からという感じで自分の記憶を分散させて大事な記憶を失ってしまうリスクを回避する。
デジタルデータならHDDやSSDなどをネットワークで繋いで大切な情報を分散させたり、外からそのデータにアクセスしたり、だれかと情報を共有したりすることができる。
人間の脳の中も電気信号で情報をやりとりしているということを耳にしたことがある。まったくそれと同じではないか、人間も実はというか、人間の方が先か。そんな方法で記憶と記憶が繋がっていたり、あれそんな情報あったんだ!と本人でも忘れているような情報を持っていることがある人間NAS説はあながち間違っていないかもなんて妄想に走りかける。
こんな感じで言葉の釣り針は余計なものまで釣り上げてくる。それは際限なく続くように思うけれども、モーニングノートという物を書くことの違う側面を示してくれるものもある。
ジュリア・キャメロン著「ずっとやりたかったことを、やりなさい」の中でモーニングノートというものが出てくる。朝起き抜けにノートに向かって自分の中から出てくる言葉をひたすら書き続けるというものだ。
覚醒めたばかりの脳だと何も浮かんでこないと思うかも知れないけれど、眠い眠い眠いねむいネムイネムイと書き続けててもいい、そうこうしていうちにネムイのはなんでだ?なんて思ったりして昨日の夜寝るの遅かったしな、そういえば晩ごはん美味しかったな、あれはあの時ニューヨークに行って食べたハンバーガーの味に似てるな。しかし、フライドポテトの量が半端ない、ジャガイモってペルー原産だよな、たしか千種類以上あったような…
といくらでも連想ゲームのように言葉が言葉を引き寄せて出てくる。流石にこの日誌ではかけないこともあるからココで自分の妄想をすべて書き出すことはできない。危険すぎる。普段は見せないことが基本になっているので、だれにも見られない開けてはならないパンドラの箱にしまい込むように、王様の耳はロバの耳~と穴に叫ぶように書き出してしまって大丈夫だ。
そうすることで自分が普段何を考えているのかを感じれるようになったり、それはただの脳のおしゃべりなんだなと気づいたり、書き続け、吐き出し続けると脳も疲れてだして少しずつ黙りだす。瞑想したような状態に近づくこともできる気がする。書き出さないと頭の中でグルグルぐるぐる周り続けてしまうのが通常でどこかで黙らせる方法を知っておかないとあらぬ妄想に取りつかれて現実の世界に歪みを起こす。
モーニングノートをすることで、クリアな頭でモノゴトを見ることができるようになっていく。実際にそうゆう効果も狙ってモーニングノートという技法があると思っていたけれど、読み返さなきゃ記憶が曖昧だ。
とほんとに言葉は色んなものを引っ張ってくる。ある意味この早朝日誌もモーニングノートみたいなものなんだと思った。
いやはよ今日の作業にいけや!と大阪生まれの血が騒ぐのかカズBがツッコミを入れてくるのが聞こえてきた。ということで朝ごはんをすましたカズAは鶏のお世話をして、突然始まった車庫の周りの溝掘りを手伝うことになった。
車庫の周辺に土が流れてきて、それを乗り越えて雨水が侵入してくるということで何年もほったらかしになっていたところを修繕していくということで、水が流れるイメージをしながら溝をほり続けた。ちょうどお昼くらいになると雨が強く降り出してきた。
作業は途中だったけれどそのまま上がってお昼ごはんを食べた。午後も雨が降り続くということで作業はなくなった。午後は妙子さんが買ってきてノートパソコンの設定をしたりしながら過ごした。
これにて福津農園の研修は終わるけれど、思ったことやなんかは「福津農園という風景に」まとめたし、これからもここでの経験や記憶は自分の考え方や行動に大きな影響を与える。そのつど連想される。少しだけ自分が生きるための土台のようなものができたのかもしれない。
今日の雨もそんなことを示唆してるのか。本来の意味とはちょっと違うけれど
「雨降って地固まる」
そんな言葉ピッタリだ。
遅いのかもしれないけれど、今になって基礎工事が完成しつつあるのか?フワフワしていた足元が固められたようなような気がした。