10月17日(月)くもり時々雨
今朝も読書からスタート。言葉の意味とそれを自分の頭の中でイメージするのが難しい。そもそも今この眼の前にある“モノ”や“コト”は自分が作り出したイメージでしかないのかもしれなくて、それを自分が“そういう風(色や形や匂いetc)”に見ている。自分以外の人に同じ様に見えているのかは分からない。人がそれに求めるイメージは人の数だけあるんじゃないだろうか?
経験してきたことや、言葉やそれに伴うイメージが今の風景をつくりだしている。それはとても強力で赤を緑にみることはできないし、箸と言ったらそのイメージはすぐに頭の中に浮かんでくる。
「物質とは、私に言わせれば、『イメージ』の集合体である。『イメージ』という語で私が意味しているのは、観念論者が表象と呼んでいるものより以上の、実在論者が事物と呼んでいるものより以下の、ある種の実在である。―つまり『事物』」と『表象』とのあいだのどこかに位置しているような実在である。このような物質の概念は、まったく常識のそれなのである。」
ベルクソン―<あいだ>を開く-レンマの地平 木岡伸夫
色んなものに<中>がある。モノゴトというのは本当はどっち付かずでとても曖昧なものなのかもしれない、でも現代社会では「どっちなの?」とどれかを選ぶように強制してくる。なんとなくこっちだったり、あっちのあそこも良いんだよな~なんて、二つに一つというよりもその間、どちらかと言えばこっちということの方が多い。
曖昧な反応というのは中々受け入れてもらえない。
でも考えていけばいくほどこれはAであるかもしれないしÁであるかもしれないし、そのどちらでもないかもしれない、ということはどちらでもあるかもしれない。
だとしたら、モノゴトはもともと曖昧なものだったのに、人間はハッキリしないこの世界をハッキリと理解するために努力してきた。それは良いことを生み出してきたし、そのお陰で人類がここまで発展してこれた。でもそれが今は窮屈な世界に押し込めるもとになっているのかもしれない。
コレかコレだけじゃなくて、いやいやその間もあるかもしれないし、その外側もあるかもしれないなんて思えたら、選択肢は無限に増えていくし開かれた世界に進むことができる。のかもしれない。
何かが分かる時が来るのか来ないのか、朝ごはんを食べる時間になった。ご飯を頂いて鶏のお世話へ。水を替えて、緑餌を与えたら、稲架掛けをするために「なる(稲をかけるための竹や木)」を田んぼの横に運ぶ。
その後は、田んぼの畦の脇の法面の草刈り。終わったら、バインダーが入りやすくするためと四隅の稲を刈り、あわせてぬかるんだ場所も手刈りしていく。
ポツポツと雨が降り続けている中で作業をしていった。真ん中の田んぼの東側を途中まで刈ったところでお昼休み。昼食を頂いて昼寝。
午前中の続きをやり終えて、「なる」の足をキノコ棟の脇から田んぼの側に運ぶ。
運び終えて次の作業をと思っていたら妙子さんが出かけていたので、刈払機の刃でも研ぐことにした。それを終える頃に戻ってきたので指示を聞いて、銀杏の仕分けをすることになった。
暗くなるまで続けて、今日の作業は終わり。