11月11日(金)晴れ ポッキーの日
昨日はいつもより夕ご飯を早めに食べて、お風呂も入って早めに寝ることができた。そのお陰か今朝は早起きできた。「実践日々のアナキズム」も終盤に差し掛かった。
自分達が知っている「歴史」というのは「何年に〇〇があった。それは~と呼ばれている」と表されるもだという。たしかに、歴史と言えばそういう風に語られる。革命、戦争、~乱などはのちの世界を生きる人達もしくはその勝者や権力を握った人達によって整理され、あたかも自分達が成し遂げたかのように語られる。
けれども、その時その渦中にいる人達は後に~と語られるようなもののために動いているわけではなくて、それぞれの人が様々な思いを抱え、それぞれの方向に向かって動いている。「歴史」はそれぞれの人の個別性、そこに起きていた偶然の出来事の重なりを見えなくさせてしまう。
秩序が保たれているように思える世の中は、こんなのは嫌だ!こんな世の中はおかしい、こっちの方が今よりもいいんじゃないか?と考える様々な人がそれぞれの場所で声を上げたり、上げるともせず自然に動き出したことで生まれた世界。それでもいったん秩序が保たれるとすべての人をそのなかに押しこもうとしてしまってまた、社会、そこで暮らす一人ひとりの人達に大きなストレス、抑圧をもたらす何かがそうさせ、無秩序が生まれる。のかな?
“ほとんどの革命は革命結社の働きによるのではなく、自然発生的で即興的な行為の凝結であること、組織化された社会運動はバラバラの異議申し立てやデモの産物であってその起因ではないこと、人間の自由のための偉大なる開放が獲得されたのは秩序だった制度的な手続きによる結果ではなく、無秩序で、予想できず、自然発生的な行動が社会秩序を下から断裂させていった結果であることを。”
ジェームズ・C.スコット著 「実践 日々のアナキズム」
偶然の出来事をあとで振り返ると必然のように見えるし、そうみたいという思いが強く働く、この偶然は決められたものなのか、そうでないのかは分からないけれど、人間だものどういう解釈もできる。一つにおさめてしまおうとすること自体がやっぱりおかしい。今も、いつの時代もそういうものが吹き出てくるタイミンがあるのかもしれない。秩序を目指すと無秩序が現れるし、いつもその間をいったり来たりするのがこの世界なのかもしれない。
なんて考えながら朝の時間が過ぎたわけではない。朝を振り返りながらおしゃべりな脳は流動的で、偶然にこんな話を考えたりする。人間は流動的で偶然を好む生き物なのかもしれない。自分だけか?
さぁさ朝ご飯を食べて、朝市へ行かねば、今日の日誌も終わらない。
朝市も今日は何があるのかな?そもそも、それに出会えるかな?という偶然性を楽しむ場所でもあるな。遅く来て、遅くにしか来られない人もいると思うけれど「あー!まだ卵あった~!」とか「今日はいちじくがあったの?」なんて声を聞くと、偶然を楽しんでいるかのようにも見えてくる。早く来られたらいつもは見ないものが見れて新鮮な気持ちになれるだろうし、遅く来てなかったり、あったりした時の嬉しい悲しいという気持ちを感じることもまた面白い。
スーパーではあまり偶然性を感じられないかもしれない。行けばいつもある、当然あるという思いで行くだろうし、スーパーはそうあるべきだと思っているのは自分だけだろうか?そんな思いで行くのだから、「なんでないんだ?」となるかもしれない。
朝市という偶然性を楽しめるのも、そこでなかったらスーパーで買えばいいかとスーバーがあることで楽しめるというスーパー様様なところもあるのかな?絶対に朝市のものでなきゃ駄目だ!となるのも息苦しいし、なきゃ諦めて、あるものでなんとかしようと自分なら思うけれどって考えていくとやっぱり人それぞれだ。一人でこんな妄想を膨らましてもしょうもないw
こんなものもあったのかと知らずに過ぎ去っていくことも幸せなこともある。
ということで今日も朝市は終わった。
帰りはフィルムを現像にだして、お昼ご飯を食べに「Cafe KITOKI」へ。
お野菜だけのランチを堪能して、日誌を書いている今、すでに小腹が空いてきている。野菜の消化は早いというのは本当か。
ということで今日も一日が終わっていく。