11月30日(水)晴れ
今日は午前中から山田の家の修復作業へ。以前は牛舎として使っていた小屋の床のコンクリを剥がす作業を続けた。ボロボロになっている土壁を直すためにその上に貼られている板を剥がすところまで進んだ。
新しいコンクリ打つために古いコンクリを剥がした下の土をかき出して一輪車で裏の畑の角に運ぶ作業をした。畑に行くために2本道があって近くて急な道、少し遠回りで緩やかな登りの道があった。一輪車一杯分の土はけっこう重くて最初は急な道を行ったけれど2回目からは緩やかに長い道を選んだ。重いものが乗った一輪車を押すというのは全身を使ってバランスを取ることを強いる。さらに雨のあとで少しぬかるんでいた道に踏ん張りが効かず一輪車が何度か転びそうになるのを力でねじ伏せながら登っていた。
床にコンクリ打つために土をかき出す前に砕いたコンクリの半分を外に出していた。それも入り口が狭いので一輪車を近くまで入れることは叶わず、スコップですくって箕に入れて外に運び出すというのを繰り返した。箕一杯のコンクリもそれなりに重いし、砕いたコンクリにスコップを差し込むというのもなかなかのものだ。これも全身運動で腕の力だけではスコップが隙間に滑り込んでくれない。脚のちからをスコップに伝えるイメージでやっていく。
サルサも床を踏む反発力を上半身まで伝えることで体の中にうねりを発生させているような気がする。それが全身で踊りを踊っていることに繋がって、体全部で音楽に乗るということになる。それが音楽を奏でる体を生むのかもしれない。そう考えると体も楽器だし、声を出せるというのは音を奏でていることになるし、体は楽器というのはあながち間違っていないのかもしれない。
今日は一日床や壁をこねくり回してなかなか疲れた。それでもその作業はなんでもやってしまう百姓的な生き方の糧になっていくのは間違いない。自分ができることを任せるということもできるし、できないことやってもらったり、できることは自分でやることもできる。まぁ色んなオプションが自分の中にあればこうじゃなきゃならないということもないよなと思えるし、そうであるかもしれないし、そうでないかもしれない、自分が見て聞いたとしても、それが本当にそうなのかというのは疑う時も必要かもしれない。どう頑張っても認知バイアスは掛かっていると思う。疑いの目で周囲を眺めるのとは違って、自分の目を疑うというのだろうか、今見ている、聞いていることは事実なのだろうか?と、何をもってそれを判断すればいいのか。
SUBURI STUDIOで出た話で
「時間を切りとる」ことは、連なった因果を断ち切り、モノゴトを分かりやすくさせてしまう危険がある。
https://workshopvo.com/archives/4685
というものがあった。自分達はどうしても目の前に起こった出来事をその瞬間のものとして判断しがちで、例えば「だれだれがやった」「〇〇だった」「〇〇された」「〇〇する」「〇〇される」と、断片的で切断された一瞬として見てしまうことがある。そこには至るまでには絡み合った様々な原因があって今まさにそうしてしまった。そうなってしまった。と思われるようなことが起こる。だから仕方がない、しょうがない、ということを言いたいわけではなくて、そうだとしたら、そこに起こっていることを自分達はどういう風に考えたらいいんだろうということを考えたい。
そこに至るまでのプロセスを想像することは面倒くさいけれど、想像することで自分にも同じようなところがあるよなと思えたり、仕方ないと思えたり、いややっぱり許せないと思ったり、それは自分の中に眠る「何かに反応するセンサー」みたいなものの存在を気づかせてくれる。何かに反応するセンサーは何にどのくらい反応するのか人それぞれに感度が違う。反射的な心の動きはセンサーが何かを感知してしまうのと似ている。センサーの動きとしては正しい。
でも、自分自身がセンサーになってしまったらいつも何か反射的に反応してしまう。もう一人の自分がいると仮定して(いるのか分からないけれど…)その自分が、自分の持っているセンサーがどんなものなのかを見るようにそのセンサーのことを知っておくことは、自分がセンサーになってしまうことを防いでくれる。センサーが示す数字(?)を見るような感じだろうか。
そこに至るまでのプロセスを想像することは反応してしまったセンサーの警報をほどいていくのと似ているのか?・・・。ちょっと違うというか、センサーの反応はしょうがないもので、そうなってしまった時には、それに気づくことかな。
常に目の前にある現象は何故にそうなっているのかを問うことは網の目の一つを見ることではなくて網全体を見渡すような視点をもつことに似ている。点と線が連なりあってひとつの大きな網になる。モノゴトの関係も網のようなものではないのか、色んな結び目がどこかに繋がっていく。まぁそれは無限にたどることができるけれど、自分もそんな連なりの中に生きているということを忘れがちだ。自分達は点を生きたり、線を生きたりしながら、網のような世界を作って生きているのかもしれない。
おわり