百姓日誌

福津農園 Day288 ほおじろ会は雨で中止、つながる水脈の話し

福津農園 Day288 ほおじろ会は雨で中止、つながる水脈の話し

2月19日(日)雨

昨日の夜から眠すぎて、というのも飲みすぎたことでちゃんと睡眠が摂れていなかったんだと思う。早起きしようと自分がかけた目覚ましも虚しく鳴り響いていたのだろうに。妻の7:30の目覚ましでようやく起きて身支度をして朝ごはんへ。少し時間があったの読書。

朝ごはんを食べて鶏のお世話へ。ぴよぴよ元気に動き回ってる雛たちに癒やされて、緑餌を取りに行く。

鶏のお世話をちゃちゃっと終わらせる。

今日はほおじろ会をやる予定だった。雨で中止になったけれど、午後に予定していた臨床心理士の方の講話が10時からあるということで一緒に参加させて頂いた。

思いの他長くなった政満さんの話しの中にも面白いなと思った話があった。

要約するに現代の人達はその地域に住む微生物と共生することがなくなってしまった。ここでは沢の水を飲む。ということはその中にいる微生物を取り込むということになる。その地に長く生存している微生物というのはその地に適応してきたものたちだ。それらを水や土を通して、農作物を通して自分自身に取り込むということは、彼らがその地に適応してきたのと一緒で人間もその地に適応することにつながる。

共生するというのはそういうことでもある。人と人、人と動物、人と植物、人と自然界、いろいろなものと共生するとは住まわせてもらうことであり、そのために人間は何ができるのか?何をしたらよくないか?そういうことを突き詰めて考えていくことが必要だ。

臨床心理士の方が最後に中村雄二郎さんの「臨床の知」の話しをしていた。その3つの特性は人間にも当てはまるんじゃないかと思うということだった。

  • シンボリズム 多義性
  • コスモロジー 唯一、一つである
  • パフォーマンス 何かを発する

人間も多義的(コップを見た時人がそれをどう思うか考えるか、ただのコップなのか、もしかしたら花瓶かも知れないし、お椀かもしれない)である。人の捉え方は見る人によってかわる。と同時に自分や他人とはどこにも同じ人が存在しない唯一の存在である。そして、そういう人同士は言葉や態度、何かを発しあうことでしかわかりあえない。わかり合えたと思えたことは錯覚かもしれない、地下の水脈のようにどこかであなたとわたしは繋がっている。深い深い底の方で繋がっているんだという感覚でいいのではないかとそんなふうなことも言っていた。

他人を理解するなんてことは本当の意味では幻想でしかないと思っていたし、理解できたなんてほんの一部を知ったということにしかならないのだと思う。それでも水脈のように繋がってはいるんだと思えることが人と人、他の生物との共生を考える上でもとても大事な感覚な気がした。

お昼まで講話は続いた。お昼休憩が終わって午後の作業へと思ったけれど雨によりお休みとなって3日分の日誌を書くための時間ができた。

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Kazuki

サルサLOVER→農業研修生→木こり見習い
赤石家のカズ
2022年3月から農業の研修を開始!
2023年4月木こり見習いになる。
福津農園での農業研修を終え次なる目的地へと旅立つ
実践の記録と日々感じたことや何かを綴る日誌。

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