KAZUKIの雑記

グルグルと回り続ける地球と自分のあたまの中

グルグルと回り続ける地球と自分のあたまの中

1月1日(日)晴れ 

動物にはお正月がない、鶏と人間の自由

1月1日になったとしても特別に何かが急激に変わることなんてないけど、この星のどこかでは劇的な変化に身を置いている人もいるかもしれない。自分に限って言えば何か変わったことはない、唯一変わったことと言えば頭が痛いことだけだろうか。ちょっと飲みすぎたなぁとは思う。

動物を飼っていると休みも何もない。鶏たちは餌を待っている(かどうかは分からないが)しスギちゃん(ヤギ)も何かを食べたいだろう。人間の自由はいとも簡単に奪われる。衣食住(衣はいらないけど)を整えることは動物を飼うことについてくる責任を引き受けるということだ。彼らの生活を保証することで自分達はたくさんの恩恵を受けている。たくさん飼っていることに疑問を投げかける人もいる。卵を産まなくなってきたらお肉にする。お金のために飼っているんじゃないのか?

う~んどうなんだろう、お金も一つの理由ではあるだろうけれど、そこから得られるものを皆で享受しているという面もあると思っている。安全で美味しいタマゴ、健康な鶏の肉、鶏糞、残飯を高速で分解してくれるシステムなどなど。そんなことを言ったとしても生死の与奪は人間の側にあるのだから、自分は動物を飼うということにはとても慎重になってしまうと思う。

究極的なことを言ったら、野菜だって生きているし、水菜や小松菜、春菊をつむ時には四肢、首根っこをちょん切るようなものだ。動物の生命云々、お金のため云々、人間が今の生活(お金を得るための行為)を送るためには今のところお金が必要で野菜や動物の生命を売らずとも、すべての人が食べるということから逃れられないのだから、お金を生み出す活動全ては植物や動物の生命を頂くということにつながる。

無闇矢鱈と食べものとして動物を生産することには疑問はある。そこで飼われてしまった生をないがしろにしているのを見ると悲しい気持ちにはなる。鳥インフルエンザで数万羽の鶏たちが殺処分される。飼う側の問題であって鶏たちにはなんの責任もない。というかどれも人間側の言い分でしかないので、どんなに飼うことの正当性を書き並べたところでなんにもならない、ただそういうことと向き合うしかない。鶏たちの幸せを願ったところでそれは人間が考える鶏の幸せにほかならない。鶏の声が聞こえるなら別だ。

人間のように自由に出入りできる家があって、食べたい時には外食しにいこうと外に出て草をついばんだり、ミミズを突いたり、ちょっと面倒くさいなと思ったら、人間に野菜のデリバリーを頼んで運んで来てくれるのを待つ。そんな生活を送りたい鶏もいるかもしれない。

今は自由と引き換えに身(住)の安全(ある期間だけ)と食の安全は保証されている。出たい時に外にでることは許されない。自分達は鶏が一羽でも外に出ようものなら脱走兵を追いかけるがごとく必死になって捕まえて小屋に戻す。自然の中に一羽解き放たれたなら、彼女は食べることには困らないとは思うけれど、鶏はあまりにも弱すぎてすぐに他の動物の餌食になってしまう。そう考えると小屋の中はとてつもなく安全だ。仲間がたくさんいるし、皆で協力すれば蛇くらいは追い払えるかもしれない。じゃあ皆で外に出たら生き残れるのだろうか?

アリは爪を運ぶ

なんで元旦の日誌(のために書いた)が鶏の話になっているのかは疑問だけれど、すべてのものには何かしらの生命(いのち)が流れている。どれもこれもその内側に何者かの死と呼ばれるものを宿している。というか一時留まっていると言ったら良いのか。野菜はたくさんの生物の死が重なり合った「土」の中にうごめく目に見えない微生物たちの生きるための活動によって育ち、命ある野菜の生命は調理され死に、もしくはそのままだれかの体内で分解されて死ぬことでだれかの命に変わってそのものの一部となって生きる。体は常に新陳代謝していて、取り込んだものはなんらかの形で外に排出されていく。アカになったり汗になったり、爪を切ったり、便尿、取り込んだものはまた出ていく。ということは留まることはできないし、留めておくことができない。常に食べ続けないと生命を維持できないのと一緒で出し続けないことには生命を維持できない。

出したものは本来は他の生物に利用されるべきものなんだけれど、今は利用されることなくどこかへと行ってしまう。農園に来て爪を外で切っていた時、何気なく地面を見ていると切った爪が動いているぞと思ったら、アリが一生懸命運んでいてどうやら巣に持ち帰ろうとしていたようだ。アリって爪も食べるんか!と驚いた。調べてみると爪はケラチンというタンパク質でできているらしく、アリにとってみたら天から金銀財宝が降ってきた(そんなもんよりも食べものが降ってきたほうがいいに決まってる)と言わんばかりにそりゃせっせと集めるはずだ。

爪はそうやって他の生物に利用される。パイプがなく土がむき出しだったころは汗だってアカだってフケだって、水に洗い流すことで土に染み込んで土の中の微生物の食べ物となって、残った栄養や水は川や海に流れていく途中でまたその中の微生物達に利用されていたのだと思う。そしてまた水は空から降ってきて自分達の汗や垢を洗い流す。なんて見事な循環システム!

便も尿も流れは一緒だ。何者かに利用され最後は自分達に降り注ぐ(笑)それはちょっと言いすぎか。

現代に至るまでに人間によってそのサイクルが分断されてしまうことでこの地球のシステムがおかしくなってきてしまった。今その活動の結果が少しずつ少しずつ現れてきている。

振り返りそびれた2022年を振り返る

1月になる前に一年を振り返ろうと思っていたんだった。去年は自分の人生の転換点が線になり始めた。その転換点というものは存在しないのかもしれない、どこからが点だったのか、線だったのかはとても曖昧で様々なものが重なり合っていたように思う。サルサを教えることを一旦休止して生きる力を付ることを目指し始めて本格的に動き出した2022年。福津農園で生活をさせてもらいますますそのことは重要になり始めたことをひしひしと感じている。起こらないと思っていた戦争が遠い国で起こって、自分達には直接的には関係がないように思えていたことが間接的に影響しながら形を変えて他の地域に生きる人達の命や居場所を奪っていく。

その前から続くコロナウィルスも同じように作用して、そこに戦争だった。他の場所での出来事は間接的とはいえ直接的とも思えるえる影響をもたらすことがわかった。裏を返せば自分自身の思考や行動も他の誰に影響を及ぼすということになる。その影響力の大小はさておき周りの人達への影響力というのはだれもが持っていて、それが大きいか小さいかの違いしかなくそこに優劣はない。影響し合うということは巡り巡ってまた自分にその影響が及ぶという無限の循環のなかに生きているということになる。自分が何かを出した時には(思考、行動、排泄物)何らかのカタチで自分自身へと返ってくる。

それがどんなカタチをしているのかは分からないけれど、どこかのお店で売られるフライドポテトやナゲットをお手頃な価格で食べて、そこで楽しく過ごす。ということだけしか普段は考えないかもしれないけれど、それを消費者が求めることで(求めるようにマーケティングされているのか?)企業は需要に答えようとして供給し始める。あるいは供給したいがために需要を喚起する。求め求められてどんどんと膨れ上がっていく。その結果は大規模なジャガイモ畑を作ることに繋がり、限りなく収量をあげるためにその作物だけが育つ環境を用意する。例えば草を生やさないように虫が寄り付かないようにと色んな薬が使われる。もちろん手作業でなんてやってられない。機械は大型化していきたくさんの燃料が必要になる。CO2は削減されない。

でも日本には機械に食わせる餌はない。

海外にしかそれはなくて、一度コロナだ戦争だと予想だにしていなかったことがが起これば輸入することができなくなる。輸入することでしか得られないということは、他の国からその資源を持ち出すということになるし、それを生産することを強いることになる。もし他の「国」と呼ばれるものが愛しき隣人であるならお互いに支え合っていけるはずなんだけれど、お金の切れ目が縁の切れ目、お金を支払わなければ手に入れられないし、何かが起こってしまえば欲しくても、お金をいくら持っていても手に入らないということはありえる。最近の大きな出来事はそれを物語るには十分するぎる。

戦争が起これば生産はストップするだろうし他の国へ輸出している場合ではない、国民を飢えさせるわけにはいかない。それは戦争をしている双方の国に言えることだ殺すこと守ることのために人々が駆り出されて、食の安全が脅かされる。っていうか殺すことに何の意味があるのか?殺してまで何を手に入れたいのか?何が手に入れられるのか?そこには憎しみしか残らないのではないか?お互いに負の感情しか残らない無意味なものだということになぜか気づけないし、負の感情にたやすく飲み込まれてしまう人間の弱さが悲しい。自分を含め。

食べる→稼ぐ→買う→食べる。食べる→作る→食べる。

お金を得るために何かを売って、その得たお金で食べるものを買う。食料を得るために食料を売って、それで得たお金でまた食料を買う。結局食料を得るためなら、そこにお金を挟む理由がどこにあるんだろう?これから日本の農業就業人口はどんどんと減少していくし、高齢化が進む、高齢者がほとんどいうことはあと数十年のうちに農作物を作る人達がいなくなっていくということだ。どうする家康どころではない。

サルサでお金を得てはいたけれど、それも食べることが出来てはじめてできることだったし、踊るということは生きるということには必要なものだと思う。(他に色々あると思う音楽や絵、裁縫に編み物、パンだけで人は生きてはいけない、バラが必要だ、それぞれの人にとってのバラが)どちらも必要だけれど、今の社会ではお金がないことには食うこともできない。基本である食うことが簡単に脅かされる。頼れば国のセーフティーネットに引っかかることもできるだろうけれども、そのネットはどのくらいの人達を受け止めることができるのだろうか?

五体満足な自分はまだ動けるのだから、何かしらして生きることができる。本当に困ったらお世話になるかもしれないが…それにしてもお金が必要なんだよなぁ。

これから減っていく農業就業人口を補うために人を使わない農業や大規模大量生産が増えていくかもしれない、脱炭素をうたう国家の戦略とは逆行するかたちの農業が進んだり、ますます安心、安全な食べ物が手に入りにくくなるかもしれない。今こうしてだれでもできる(と思える)農業をやり方を知れていることは今後の自分の人生にとってはプラス以外のなにものでもない。生きることの基本にある食を作り出すことができるということはすべての活動を支える。バラを愛でることができる精神的支柱になるしその逆もしかりで、バラを愛でるためにはパンを買うのではなく(もしくはパンを作ってくれる人をなんらかのカタチで支える)パンを作る。その材料を作ることも大事だ。

食べるものを作り出す百性的な生活に関わってきたことでさらに海や山や川の重要性、すべてのものが巡り巡る循環が身の回りのいたるところで起きていることに気づけたし、地元の環境の面白さに気づくきっかけになった。ここで学んだことはどこでも活かすことのできる考えた方だと思うし、こんな場所がいたるところにできたならと願う。願うだけじゃなくこれから自分も実践していこうとも思っている。

循環する世界は中動態の世界

今まで色々と並べ立ててきた影響しあい循環する世界は、その行為が行為者自身に影響を及ぼし続けるという意味においては中動態と同じじゃないか。まさに循環の輪の中にいる自分達のことを説明するかのようだ。

去年はWORKSHOP VO!!の活動がふわっと始まった年でもあった。自分が思うところによれば、これまでの時代の流れの中で知らずしらずの内に失われてきたものがコロナ禍を期に一瞬浮き彫りになったような感じで、それはまた時間が経つとなかったもののように姿を消してしまう何かだ。何かが失われているんだけどそれが何なのかに気づけるのはそんな時しかないのかもしれない。WORKSHOP VO!!はそんな掴みどころのないものを探っていく活動をしているのだろう。

その活動の一つにSUBURI STUDIOがある。まぁいわゆる読書会と呼ばれるもので自分達の基礎体力をつけるかのごとく素振りに励んでいる。そこで読んできた本は「思いがけず利他」「目の見えない白鳥さんとアートを見にいく」「中動態の世界-意思と責任の生成」「居るのはつらいよ-ケアとセラピーについての覚書」となんとなくだけれど思考の柱は繋がっている。

現在、自分が農業を勉強している中でもそうだし、サルサを踊ることについても共通する概念みたいなものがあるし、その本の中に自分がやっていることを投影しているからなのだろうけれど、自分の考えていることを浮き彫りにしてくれることが読んできた本にはたくさん書いてあった。そんな意味で素振りしまくることで、自分も気づき、気づきを出し合うこと、一緒に素振りし合うことでその影響を受け続けるし与え続ける。それがまたどこかに作用し続けながら自分のもとに戻ってくる。

利他とは思いがけずしてしまうもの、It's automaticだと本の中でも言っていた。

思いがけず声が掛かってWORKSHOP VO!!に関わり、思いがけず自分は自分の考えていること(もしかしたらどこかで読んだことを書いているだけかもしれないけれど)をこうして書いている。たくさんの何かに影響されて。

過去に生きた人達、未来を生きる人達、自分達はどちらからも影響を受け続けているのではないか?もちろんそして現代を生きる自分達自身からも。

現代に生きる自分達は過去に生きた人達の思いを未来へと紡いでいく。どこかに行くわけでもなくこの地球上でその循環の糸を紡ぎ続けている。

良かったもの悪かったものその全てから学ばなければならないだろうし、学ばないということはその糸を少しずつ少しずつ断ち切るようなものだ。

すべては紡がれてきたものであるなら、何かをこしらえて、ばらしたり、こしらえることもせずそのまま受け渡すこともできる。過去と未来、始まりと終わりそれはよくよく観察してみると限りなく曖昧で一つに見えてくる。過去もなく未来もない、始まりも終わりもなく、死もなく生もない、朝日もなく夕日もない、朝もなく夜もなく、そこには回り続ける地球があるだけ。(ちょっと安藤昌益に影響されているな、いやかなり)

何かを考えてみたようで何も変わらず地球のようにグルグルと回っているだけだった。その地球ですら何かの影響をうけて回り続けている。ならば自分達もグルグルと考えを巡らせ続けるしかない、か。

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Kazuki

サルサLOVER→農業研修生→木こり見習い
赤石家のカズ
2022年3月から農業の研修を開始!
2023年4月木こり見習いになる。
福津農園での農業研修を終え次なる目的地へと旅立つ
実践の記録と日々感じたことや何かを綴る日誌。

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