KAZUKIの雑記

「人」は時々「ヒト」になったらいいじゃないのか-「悼む」ことから思ったこと

「人」は時々「ヒト」になったらいいじゃないのか-「悼む」ことから思ったこと

1月12日(木)晴れ

目が覚めたのは7:00少し前。やりたいことはあったけどとりあえずコーヒーだけは飲もうとキッチンへ行く。妙子さんが起きてきていた。ちょっと早いなと思ったけれど、あ、そうえいば今日は政満さんが名古屋に行く日だった。お湯を沸かしてコーヒーを淹れる準備をしながら、最近自分が考えていることの話しに近いものになった。

最近考えていることというは、「悼む」から飛躍してしまった世界感。生と死とか循環とかの話しだ。そういえば昨日夜にYoutubeでカニバリズムに関する動画を見たこともそんなことを考えることにつながったのかもしれない。自分達は人が亡くなった時はお葬式をしたり、何らかの儀式的な行いをする。ある部族ではなくなったものの亡骸を食べたり、身近なところで言えば火でもやして骨だけにしてお墓の中にその骨を安置したりする。もしくは、そのまま土葬したりと様々方法で人の死を「悼む」。なんらかの儀式的行動をともなう悼むという行為は人間独特の行いだと思う。

例えば鳥やネズミや虫達は(人と一緒にするのはおかしいことだろうか?)何かしらが起こって死んでしまうことがあったとして儀式的行動をとることがあるのだろうか?もちろん、その時その場で泣いたり悲しんだりすることはあると思う。そのまま亡きあいつのことを思って何かを残したり、残そうとしたりするのだろうか?もしそんなことをしていたら、自然界には墓みたいなもので溢れかえってしまうだろうな。想像するとちょっと怖いし、常に壊され続けれるような気もする。

最近強く思うのは、人も動物も植物も人間にとっての微生物も地球にとっては分け隔てることのない一個の生物なんだということ。地球さん、いや宇宙さん的な視点から言ってしまえば壮大すぎるので地球さん的な視点で眺めるだけにしておこう。

地球の表皮の上で生活する我々生物は地球さんと共生する微生物みたいなものなんじゃないかと思えてきてしょうがない。人間の皮膚の上で爆発的に増えてしまった微生物が肌になんらかの悪さをして悪影響を与えてしまったり、人間でいうなら腸(これすらも表面であるから皮膚と言ってもいいのかもしれない)やなんかである種の微生物が増えすぎることでお腹が痛くなったりする。

微生物はそれ自体に良いも悪いもない。それは人間の体を考えてみてもそうだ。皮膚の表面には数え切れないほどの微生物がいて、かれらの生の営みによって皮膚が健康に保たれたり、それぞれの微生物間のバランスをとろうとしている。そのバランスが崩れた時に人間にとってなんらかの悪影響を及ぼす。腸内でも胃でもそうなのかもしれないけれど、微生物達がそこには住んでいて彼らが食べ物を分解(彼らも食べなきゃ生きられない、食べて排泄する活動を分解と呼んでいるんじゃないのか)してくれないと自分達はこの体さえ満足に維持することができない。

それは地球にとっても同じことが言えて、微生物である我々は地球にとって良くも悪くも働きかける時がある。どんなに良い微生物であろうとしても増えすぎることで悪影響を与えることもある。人間の体もそうであるように手が汚れれば水で洗い流すし、ホコリが付けば手で払いのける。何かが体や頭についたらふるい落とすこともある。それは、体に何らかの悪影響を与えることを知っているから、そういう行動をとろうとするんじゃないだろうか。まぁそれですらも共生する微生物によっては何の影響もでないこともありえるので、そういう行動すらとらないこともあるのかもしれない。

地球にとってのそういう行動とはなんだろう。一部の微生物の活動によって熱を持つようになってしまった地球はその温度下げようとする。そしたら雨をたくさん降らすかもしれない。たくさん降った水は山から川、海へ戻る。その過程で山を崩すこともあるだろうし、川を氾濫させることもある。雨が通る山、この山では植物達が周りよりも一段高い場所で太陽をたくさん浴びられる。その植物達が作った土を通ることで栄養を分けるようにして川に流れていく、川から滲み出した水はその周辺の植物たちの栄養になるだろうし、そうして育った植物たちを利用することで他の生物の生活も成り立つ。最終的に海の入り口にまで栄養が運ばれて海の生物達の糧となる。

いつのころからか人間にとって土砂崩れや川の氾濫は憎むべきものになってしまった。川の氾濫を防ぐためにダムを作ったり、川をコンクリートで固めてしまったりして水をコントロールできると思ってしまった。それは未だに叶わぬ夢だし、時には数十年、数百年に一度呼ばれる災害に度々みまわれるようになってきた。たくさん理由はあるのだろうけど、人が増えてしまって本来住むべき場所ではない場所に住む必要に迫られたからなのかもしれないし、便利さだけを追い求めることがそういう場所に住むことにつながっているのかもしれない。

どっちも生きなきゃいけないのだから、人間も地球も生のせめぎ合いの中で生きている。というかそもそもの生きるための土台である地球がないことには我々生物は生きられない。地球がだめになったら、他の星へなんてSFのように上手くいくだろうか?じゃなくともバーチャルの世界に土地を拡大したらいいのか?宇宙空間で生きるためにも、やっぱり太陽のエネルギーや植物、植物が育つための栄養が必要だ。水耕栽培?その水と栄養はどこで作られるのか?それこそ様々微生物の働きがないことにはそのどれもが手に入らない。

空気中、宇宙空間の中にある物質から様々なもの、日々使っているものを生成する技術が作られたとしたら(それこそ神か)どこでも生きてい行くことができるのかもしれない。それぞれの生物(数え切れないほど厖大な!)の営みとそのバランスによって様々なものが享受できているこの世界。そのすべての営みとバランスを解き明かすその時が人類には訪れるのだろうか?

この世界に生きる人々(自分も含め)はどんなところで生きていようとそれぞれの目で世界を見ている。同じような考えしかできないと言われていてもなお、それぞれの世界の見方があり、自分が思っている正しさを振りかざすことなんてできない。ただ自分はこう思うんだ。とそういうことしかできない。それは間違っていると言われても、場所や人や生まれた時が変わればそんなこといつでも簡単に変わってしまう。

「悼む」ことからだいぶ飛躍してたどり着いたのは地球にとっての「ヒト」は霊長類の一種でしかないという視点。もっともっと拡大解釈するなら微生物のようなもの。だって他の生物を食べて分解して排泄して、それをまた他の生物が利用する。(現在はほとんど利用されなくなったが)あまりというかほとんど他の生物に食われることはないけれど、たまに食われることもある。熊とか。

「ヒト」が自然の中で亡くなるなら、その肉体は他の生物の食料となって彼らの生命をつなぐ。それは錆びついていた循環の歯車の一つが円滑に動き出すことにつながるんじゃないのだろうか。

他の生物の生命をつないでいくことが長い目で見た時に「ヒト」にとっても食うに困らない社会を作り出すことになって「人」の生活を安定させることになるのかもしれない。すべての自然災害はたくさんの「人」の生命を奪っていく、それは悲しいものだし、身近な「人」の死は悲しい。自然災害と呼ばれるものも「人」の現在の行い、生き方によるものが多分で、「人」の計り知れない他の生命体(太陽とか他の惑星とか)の活動の影響もあるかもしれない。それを因果応報というのか、現在のこの状況は色んなものの影響を受けることでなるべくしてなったように見える。

一個体としての「ヒト」としての視点で「人」の死を考えるなら、自然災害による「ヒト」の死は他の生物の生命を支えることに繋がるものと取ることができる。

自分の父親の死を悲しんだ一人であるので人の死については重々承知している。だから、人の死をないがしろにしているかどうかの話ではなく、「人」の死をどう捉えるかの話しをしている。「人の死」に固執するあまりに「ヒトの死」というものは見えなくなっている。

「ヒトの死」は単純明快だ。他の生物の生命の一部になること、そしてまた他の生物の一部にそして、と回り続けてもしかしたら「人」の生命の一部になっているかもしれない。「ヒトの死」はそのサイクルの一部になる。

でも「人の死」は複雑多岐にわたる。なぜあの人は死ななければいけないのか?なぜあのときあの場所にいてしまったのか?なぜあそこで自然災害が起こってしまったのか?なぜ、なぜ、なぜ・・・と考え出せばきりがない。それを終わらせる、終わることはないのだろうけれど、それと折り合いをつけるために「悼む」といことが必要なのかもしれない。

この社会(自分であれば日本)に生まれて、そこで育ってきた人に育てられ、生きてきた。その過程で様々なことを見て学び、感じ、生き方、その他のものごとを意識的にも無意識的にも自分の中に取り込んできている。

現代は人の死を悼むということはほとんどの地域で行われていることなんじゃないだろうか?それは大切な人の死のその後も生き続ける自分達にとって必要なことであって亡くなってしまった人に必要なことではない。それは以前話をしたことがあったお葬式の話しなどからも、そうなんだと思う。

今ふと思ったけれど、お葬式は亡くなった人を悼みながら自分達が死者によって悼まれる行為なのかもしれない。

死について考えていくと宗教やスピリチュアルな世界へといざなわれる。自分はそういう世界も好きだ。

仏教の世界にも輪廻転生という言葉があるように突き詰めて考えてみると「人もヒトの肉体も精神も」何ものかの生命(それは思考も含め)の一部となり、そのまた何ものかの生命の一部になって、回り回って巡り巡って「人」や「ヒト」の呼ばれるものを通過していく。

今の自分は土にそのまま還ってももいいとさえ思っている。燃やされて灰になって狭い部屋に押し込められるよりは色んなものの一部になって旅に出るのも面白いんじゃないだろうか。

ときには「ヒト」に戻ってみることが「人」の生き方を楽にしてくれる気がするけどどうなんでしょうね。

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Kazuki

サルサLOVER→農業研修生→木こり見習い
赤石家のカズ
2022年3月から農業の研修を開始!
2023年4月木こり見習いになる。
福津農園での農業研修を終え次なる目的地へと旅立つ
実践の記録と日々感じたことや何かを綴る日誌。

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